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秋田県能代市檜山

震災前取材

 

別名:霧山城、堀ノ内城

檜山城は、標高147m, 比高約120mの霧山上にある。東西約1500m, 南北約900mの大規模な山城で、西方には南北に羽州街道が縦走する。

蝦夷館式馬蹄形山城で、地形を利用し堀切や段築を用いて全山を要害としている。城の中核の本郭、二の郭、三の郭は南側の最頂部に位置する。北側の緩斜面にも多数の郭や腰郭があり、古絵図には本宮堂、鉄砲場、星場など多数の施設が記載されている。

さらに主郭から延びた尾根にも、随所に段差の低い段郭群が配され、先端部分には大規模な堀切が見られる。東側には「将軍山」があり、堀切で本城部と遮断され、枡形虎口が残存している。「将軍山」は城域の東端のピークになり、物見郭だったと考えられる。

「将軍山」の北側下には家臣の屋敷地と考えられる広い平場があり、西側縁部に沿って低めの土塁が築かれ、また東郭から繋がる虎口が見られ、北端には土塁で囲郭された館神祉がある。さらにこの尾根は、東西に延びる北郭群に繋がっており、北郭群は本城域北側を防御する城塁だったと思われる。居館は、西麓の多宝院の境内がそれと考えられ、西側尾根を通り本城域に繋がるルートが大手筋と思われる。

また、周辺には大館や茶臼館などの出城が配置され、さらに城の防御を堅固なものにしている。

安倍定任の末裔とも言われる秋田安東氏は、鎌倉時代に津軽郡の十三湊を領有したことに始まる。しかし、嘉吉3年(1443)、南部義政の攻撃を受けて津軽十三湊を追われ、蝦夷地に逃れた安藤盛季は、再三にわたり津軽の旧領回復を目指し津軽に侵入するが南部氏に拒まれ、子の康季は病死し、孫の義季も自害して安藤氏の直系は断絶した。

しかし、享禄3年(1454)、盛季の甥の政季は、蝦夷地道南を掌握し、康正2年(1456)、同族の秋田湊城主安東尭季の支援を受けて、子の忠季とともに米代川河口部に進出し、この地を領していた葛西氏を滅ぼし、明応4年(1495)頃に忠季が支配拠点としてこの城を築いたとされる。

その後、檜山安東氏は、尋季、舜季の代の16世紀初期には、蝦夷、津軽から若狭までの日本海交易の利権を握り、さらに愛季の代に全盛期を迎える。天文22年(1553)、檜山安東家の家督を継いだ愛季は、阿仁郡を手中におさめ、さらに永禄5年(1562)には比内郡に侵攻、独鈷城主浅利則祐を自害に追い込み、弟の浅利勝頼に預け比内郡を支配下に置いた。

さらに愛季は、南部氏の支配下にあった鹿角郡制圧を目論み、永禄9年(1566)に鹿角に侵攻し制圧した。しかし永禄12年(1569)、石川高信、南部信直に率いられた南部勢に南北から挟撃され、鹿角郡から退却した。

この間愛季は、後嗣が絶えた宗家筋の湊安東家に弟茂季を送り込み、元亀元年(1570)湊安東家を統合し、湊家のもっていた交易利権を掌握した。しかし、これを良しとしない湊安東家に属していた国人らが反愛季の兵を挙げ愛季勢と抗戦したが、結局、愛季勢の優勢で乱は終結した。

この頃、庄内の武藤氏は、積極的に由利郡に侵入し由利十二頭を掌握しようとしていたが、天正10年(1582)、愛季は反武藤勢力を支援し、荒沢館の戦で武藤軍を撃破し、由利郡にも影響力を持つようになった。また翌年の天正11年には安東氏支配を脱しようとしていた浅利勝頼を檜山城で謀殺し、仙北郡への侵入をうかがい始める。

天正15年(1587)、角館の戸沢盛安と横手の小野寺義道が不和になると、愛季は盛安に小野寺攻めを持ちかけたが盛安はこれを拒否、このため安東勢は唐松城を前線基地として唐松野で戸沢軍と戦った。しかしこの対陣中に愛季は死去し撤退した。

愛季の跡は12歳の嗣子実季が継いだが、湊安東家の復権を目論む安東高季らは、南部信直、戸沢盛安の支援を受けて実季に叛旗を翻した。湊安東勢に湊城を追われた実季は、檜山城に150日の間籠城して抗戦、南部勢が鹿角から比内郡に侵入すると、秋田郡を湊安東氏に割譲する条件で和睦した。その上で天正17年(1589)、実季は阿仁郡で南部軍を撃退、湊安東氏との和睦を一方的に破棄し、由利十二頭の支援を受けて、南北から湊安東氏を挟撃する形で秋田郡に侵攻を開始した。

実季は、湊方の浦城、山内城を攻略し、船越の戦で湊安東高季に壊滅的な敗北を負わせると、湊城を総攻撃で落城させ、高季を仙北に追い落とした。これにより実季は秋田郡の国人領主層を完全に制圧して秋田郡の領国化に成功した。

天正18年(1590)、実季は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣し、本領を安堵され豊臣政権下に組み込まれた。この頃から「秋田城介」を名乗り、安東氏から秋田氏を称するようになる。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに際しては、実季は徳川方に属し、西軍の小野寺氏を攻撃した。しかし戦後、秋田には佐竹義宣が転封されることになり、慶長5年(1602)、実季はその余波を受けて常陸国松岡に移封となった。

佐竹氏が秋田に入ると、檜山城には佐竹氏の一族の小場義成が城代として入城、さらに慶長9年(1609)年には多賀谷宣家が入ったが、元和6年(1620)の一国一城令で廃城となった。