秋田県秋田市寺内神屋敷

震災前取材

 

この地の「仙台藩殉難碑」は、慶応4年(1868)7月、城下およびその近郊において秋田藩士らによって殺害された仙台藩士11人を悼み、建てられたもの。

秋田久保田藩は、国学の平田篤胤の生没地であるため、その影響から勤王思想を持っている者が多かった。鳥羽伏見の戦いが幕府軍の敗北に終わって間もない 慶応4年1月、薩長を中心とした新政府は、奥羽諸藩に東征軍に協力することを命じた。

同年2月、奥羽鎮撫隊総督九条道孝は海路仙台に入り、直ちに仙台、米沢両藩に会津討伐を命じ、4月には秋田久保田藩に庄内討伐を命じた。この命を受けて秋田藩は、亀田藩、本荘藩、矢島藩、津軽藩、新庄藩などと共同し、兵を集結した。しかし庄内藩が討伐対象とされる経緯に対し、薩摩藩の私怨と考える藩士も多く士気はふるわなかった。

庄内藩はこの秋田藩を中心とした連合軍に対し、閏4月に攻撃した。庄内藩の装備は連合軍よりも優れ、また洋式訓練も進んでおり、士気のふるわない秋田連合軍は総崩れとなった。

その後、仙台藩、米沢藩の、会津、庄内の赦免運動が頓挫し、奥羽諸藩は仙台藩の白石会議の呼びかけに応じ、秋田藩を中心とした連合はなし崩し的に解散となった。

白石会議には秋田久保田藩からは家老の戸村十太夫が出席し奥羽越列藩同盟に調印した。しかし秋田藩では藩論はまとまってはおらず、秋田領内には薩摩藩、長州藩、佐賀藩などの西軍が入り、また仙台から総督の九条道孝と参謀の醍醐忠敬が秋田に入った。

ここに至り、仙台藩は秋田藩の動きを「奇怪千萬なり」として、志茂又左衛門らを秋田に使者として送り、九条総督の仙台への引き上げを申し入れた。

これに対して、城内では勤皇派と同盟派が激しく争い、最終的に秋田久保田藩主佐竹義堯の裁断で、秋田藩は同盟離脱を決定した。そして西軍参謀大山格之助の命令で、仙台藩の使節の志茂又左衛門ら11人を殺害し久保田城下に首をさらした。

このことで仙台藩は烈火のごとく怒り、秋田戦争が始まった。同盟は分裂して、秋田藩は仙台藩、庄内藩、南部藩らから激しく攻められることになる。

この「殉難碑」は、始めは明治3年(1870)、仙台藩士らの殺害にも関わった吉川忠安ら秋田藩有志によって建てられた。しかし、明治21年(1888)、その碑は、現在の台座下に埋められ、その上に、勝海舟に筆を依頼した仙台藩関係者により建てなおされたと云う。

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