秋田県上小阿仁村小沢田

2013/08/19取材

 

別名:小沢田館

小沢田館は小阿仁川左岸の七倉山の、比高約110mの南側尾根先端に築かれた山城で、小阿仁川流域を見下ろす要地である。西側は沢が切れ込み、東側は急斜面で守られた自然の要害となっている。大手は南側からの尾根道と考えられ、いくつかの郭が配されていたようだ。郭は狭く、居館ではなく有事の際の詰の城、物見砦だったと考えられる。主郭跡には、現在七倉神社がある。

築城時期など詳細は不明であるが、嘉成三七が沖田面ウトヒラ館から移って居城としたとされる。嘉成氏は、葛西氏の一族で、下総から陸奥に入部し「金成」と称したが、その一部が出羽に入り「嘉成」と称したと云うが、在地から発生したとする説もある。

嘉成氏は、戦国期迄に米内沢城を中心に、阿仁川、小阿仁川、米代川中流域に庶流を配して勢力を拡大した国人領主だった。しかし、檜山安東氏が勢力を拡大する過程で、秋田愛季により攻められ、その支配下に組み込まれたと考えられる。

その後、嘉成氏は天正10年(1582)の「荒沢合戦」や同15年(1587)の「唐松野合戦」に安東勢として参陣した。唐松野合戦で安東愛季が陣没すると、安東氏内部には同16年(1588)に「湊騒動」が勃発したが、嘉成氏は安東実季に従い檜山城に籠城し、比内から阿仁郡に侵攻した南部軍と「米内沢塚の台の戦」で戦った。この戦いは、嘉成常陸介資清ら阿仁衆が主力となり南部軍を撃退した。

その後、関ヶ原の戦いの後の慶長6年(1601)、安東氏は常陸へ移封され、その頃に廃城になったと思われる。