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秋田県仙北市角館町岩瀬

震災前取材

 

菅江真澄は本名を白井秀雄といい、宝暦4年(1754)三河に生まれた。尾張藩の薬草園につとめ、丹羽嘉信について漢学、画技を、また浅井図南から本草学、医学を修得した。この頃から各地をしばしば巡って紀行を執筆した。

天明3年(1783)のとき、30歳で故郷を出奔した。その理由は不明であるが、故郷を離れてからも、郷里の知人に音信を知らせたりしていることから、事件に関わってのこととは思えない。北を目指して旅に出た真澄は、信州から越後を通り、翌年の暮れに秋田の地に足を踏み入れた。以来信州、東北から蝦夷地にいたる長い旅を重ねる。

旅先の各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残す。特にそれに付された彼のスケッチ画は、写実的で、学術的な記録としての価値も高い。著述は100種200冊ほどを数え、「菅江真澄遊覧記」と総称されている。

寛政9年(1797)9月、真澄は津軽藩主津軽寧親によって、開設されたばかりの藩校稽古館によばれ薬事係に任命された。これは、津軽藩の薬草の自給自足をはかるためでもあった。真澄は藩医たちと薬草採取を行い、藩の期待に応えたが、 寛政11年(1799)4月、突如その任を解かれ帰国を促された。しかし真澄は、その後2年間津軽藩内を歩き、見聞きした事柄をまとめ『岩木山物語』『善知鳥物語』『浪岡物語』を著した。しかし、これらのことで、津軽藩は真澄を南部藩の間者ではないかと疑い、 寛政13年(1801)に、3冊の本や差し障りのある記録を没収し、真澄を津軽藩から追放した。

真澄は秋田に入り、藩内をくまなく歩いた。文化8年(1811)、真澄は秋田藩金足の豪農奈良家を訪れ、ここで秋田藩の藩校であった明徳館の学者、那珂通博に出会い、また藩主の佐竹義和にも会うことができ、出羽六郡の地誌を作ってほしいと頼まれた。以降彼は、秋田藩の久保田城下に住み、藩主とも親交を持ち、秋田藩の地誌の作成に携わった。

結局真澄は、45年間一度も故郷に帰ることなく、奥羽の北辺から蝦夷にまで足を延ばして、数多くの紀行文や地誌を残し、常民の暮らしや生活に絵を添えて克明に記録した。その作品群は、明治の末、日本民俗学を確立した柳田国男によって民俗学の鼻祖と高く評価された。

文政12年(1829)、地誌「月の出羽路仙北郡」調査の途中、田沢湖町神代で病を得、この地の神官鈴木家に移されたのち、同年7月、76歳で没した。

真澄の著書は、文政5年(1822)に明徳館に献納され、明徳館の事業として編纂された『雪の出羽路 平鹿郡』『月の出羽路 仙北郡』も明徳館に献納され、現在は秋田県立博物館が収蔵する。また、『自筆本真澄遊覧記』89冊は、平成3年(1991)には国の重要文化財となっている。

真澄没後に書斎に残された著書は、墓碑建立に協力した人に形見分けされた。これらは旧久保田藩士の真崎勇助によって収集され、現在は、大館市立中央図書館が収蔵し、昭和33年(1958)には『菅江真澄著作』47点として秋田県有形文化財に指定されている。

墓は秋田市寺内にある。