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秋田県小坂町小坂鉱山字古館

震災前取材

 

小坂鉱山事務所は、明治38年(1905)に、鉱山発展のシンボルとして建設された、小坂町の代表的近代化遺産である。

ルネサンス風の外観と、イスラム風またはサラセン風と呼ばれるバルコニー付きポーチを特徴とする。和風を取り入れた天井や玄関ホールの優美ならせん階段も魅力的で、近代西洋建築の傑作ともいわれる。

小坂精錬電解工場増築の支障となることから、町が文化財としての保存に取り組み、平成10年(1998)に始まった解体及び鉱山病院跡地への移築、復元工事は、平成12年(2000)11月に竣工。翌年4月、創建時の姿そのままに、観光拠点「小坂鉱山事務所」としてオープンした。

小坂鉱山は、文政12年(1829)に地元の農民により発見されたが、当時は鉛山と見られ重要視はされなかった。文久元年(1861)、相内鉱山が発見され、さらに慶応2年(1866)に、南部藩士の大島高任が調査し、南部藩に「稀有の良山」と報告したことで本格的な開発が始まった。

しかし、慶応4年(1868)に戊辰戦争が勃発し、南部藩は秋田藩に侵入、開発は中断された。明治3年(1870)に、明治新政府により開発が始まり、大島高任や、外国人として日本鉱業界をリードしたクルト・アドルフ・ネットーらに支えられ開発が進められた。

明治時代の近代化の息吹とともに、小坂鉱山は明治初期の「富国強兵」「殖産興業」政策に大きく貢献した。明治17年(1884)に藤田組に払い下げられ、明治24年(1901)には銀の生産高が日本一の鉱山となり、日本の主要鉱山の地位を確立した。

明治30年代に入ると、土鉱とよばれた鉱石が底をつき沈滞期を迎えたが、「黒鉱自溶製錬」の成功で黒鉱から採れる銅や亜鉛、鉛の生産が主体となったが、この新技術は小坂に新たな活気をもたらした。労働者を集めるために、山の中にアパート、劇場、病院、鉄道等の近代的なインフラ整備が進められたのもこの頃である。

そのような順風満帆の時代、小坂鉱山を新時代のリーダーに発展させたいという藤田組の強い意志があり、明治38年(1905)に、巨費を投じて豪壮華麗な「旧小坂鉱山事務所」が建設された。まさに旧小坂鉱山事務所は日本一の大鉱山のシンボルでもあった。

しかし、第二次世界大戦直後には資源の枯渇等を理由に採掘が中断され、1960年代に入り新鉱脈が発見され採掘が再開されたが、鉱山全体としての操業は縮小の方向で推移している。