秋田県小坂町

2011/10/02取材

 

文政4年(1821)、盛岡藩士の相馬大作(本名:下斗米秀之進)は、津軽藩主津軽寧親に隠居を勧告し、参勤交代を終えて江戸から帰国の途中の津軽藩の行列を羽州街道の矢立峠の近くで数人で襲撃する計画を立てた。

しかし事件前に裏切った仲間の密告により、津軽寧親の暗殺は失敗し、この地の小笠原家の土蔵に隠れていた。その後盛岡藩を出奔し、江戸へ出たが捕縛され獄門にかけられた。

津軽藩と盛岡藩とは長い確執があり、それは戦国時代の末期、本来南部氏の一族だった津軽為信が、同じ南部一族を攻撃して津軽地方を支配し、その後の豊臣秀吉の小田原の陣に際しては、南部氏に先駆けて参陣し、秀吉から所領を安堵され、大名として独立を果たしたことに始まる。

事件の前年の文政3年(1820)、盛岡藩主南部利敬が39歳の若さで没するとその跡を14歳の利用が継いだ。このとき利用はまだ若いため無位無官であり、この当時の津軽藩主の津軽寧親は、幕府の信任もあつく、従四位下に叙任されていた。盛岡藩では、津軽藩を家臣筋、格下だと思っていたものが上の地位となったことに憤懣がつのった。

翌文政4年(1821)、大作は津軽寧親に果たし状を送り、辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を伝えた。津軽寧親はこれを無視したために、大作ら数人は羽州街道矢立峠付近で暗殺すべく待ちかまえていた。しかしこの企ては、仲間の密告により、津軽藩行列は日本海沿いの別の道を通り弘前藩に帰還し失敗した。

暗殺の失敗により、大作は盛岡藩に迷惑がかからないように出奔し、江戸に隠れ住んでいたが捕縛され、文政5年(1822)、千住小塚原の刑場で獄門の刑に処せられた。享年34歳だった。

津軽寧親は、国許に帰ってから体調を崩し、また参勤交代の道筋を許可もなく変更したことを幕府に咎められ、このため寧親は数年後、幕府に隠居の届けを出し、結果的に大作の目的は達成された。

その後江戸では、この事件を赤穂浪士の再来と騒ぎ立て、事件は講談などで取り上げられ、「みちのく忠臣蔵」などともてはやされた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です