鹿角郡小坂町十和田湖字大川岱90

2013/06/10取材

 

この神社は、十和田湖に養殖業を興した和井内貞行夫妻を祀ったもの。

和井内貞行は、安政5年(1858)盛岡藩重臣桜庭家の筆頭家老職を勤める家に生まれた。

貞行は武家の子として厳しく躾けられ、明治維新の盛岡藩の敗北を肌で感じながら、幼少時代をこの毛馬内で過ごした。明治7年(1874)、17歳で毛馬内学校に教員手伝いとして奉職した。明治11年(1878)、貞行21歳の時にカツと結婚した。

明治14年(1881)、24歳の時に工部省小坂鉱山寮の吏員として就職、明治17年(1884)小坂鉱山は藤田組に払い下げとなり、貞行も藤田組の社員に身分が代わった。この年、27歳の貞行は、養殖漁業に乗り出す決心をする。

同年、初めて鯉600尾を十和田湖に放流、翌年にはさらに1400尾を放流した。しかし、本格的に養殖漁業に乗り出そうとした矢先、営業不振のため十輪田鉱山は休山になってしまった。銀山からは多くの労働者や家族が去り、「鉱山で働く人たちへの食糧調達」という漁業の目的は崩れ去り、加えて明治27年(1894)、貞行に小坂鉱山への転勤命令が下った。

明治30年(1897)、40歳の貞行は養殖漁業に専念するため藤田組を退社し、小坂から十和田湖へと帰り、養魚に専念し、鯉を小坂や毛馬内の市場に出荷し始めた。鯉の評判は良かったが、さらに繁殖法と缶詰製造の技術を学ぶ為、東京や関西方面へ足を延ばした。

貞行はすっかり寂れてしまった銀山に旅館「観湖楼」を営業し、人工孵化場を作った。また、新聞に十和田湖景勝の記事を載せ、湖の宣伝にも乗り出しました。

明治33年(1900)、貞行は長男貞時とともに、事業の浮沈をかけ、青森水産試験場から買い入れたサクラマスの卵を孵化させると、5,000尾の稚魚を放流した。また日光マス稚魚35,000尾を放流した。

この頃貞行はヒメマスのことを聞き、苦しい経営の中で、卵を買い求め孵化を始めた。妻のカツは、貞行を支える為に自分の着物や櫛、愛用の懐中時計などを質入れするなどし、卵を購入する為の資金を調達したと云われている。

明治36年(1903)、卵の孵化に成功した貞行は稚魚30,000尾を放流、「和井内マス」と命名した。しかし、このマスが放流地点に帰るのは3年後のことであり、また苦労の日々が続き、和井内家の家計は困窮した。

生活苦の中でも貞行は希望を失わず、明治38年(1905)の日露戦争勝利を記念し、新たな孵化場の建築を始めた。ヒメマスが群れをなして帰って来たのはその年の秋のことだった。貞行の養殖事業成功の瞬間だった。

明治40年(1907)、貞行は養魚事業の功績により「緑綬褒章」を授けられた。しかしこの年、長年苦労をともにしてきた妻カツが病に倒れ、46年の生涯を閉じた。湖畔の人々はカツの温情に感謝し、大川岱に「勝漁神社」を建立して御霊を祀った。

その16年後。十和田湖に一生を捧げた和井内貞行も、大正11年(1922)65年の波乱の生涯を閉じた。その後の昭和8年(1933)、「勝漁神社」は「和井内神社」に改められ、貞行と妻のカツが共に祀られている。

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