秋田県能代市二ツ井町荷上場字下中島

震災前取材

この地の加護山製錬所は、安永3年(1774)から明治27年(1894)の閉山するまでの約120年間稼動し、最盛時にはおよそ400人の人々が働いていた。
 
 秋田藩では、製錬技術の未熟から、銅に含まれる銀を処理できずにいたが、安永2年(1773)、平賀源内、吉田利兵衛の二人を招き「南蛮吹き」の製錬技術の指導を受け、多量の銀を抽出することに成功し藩の財政に大いに貢献した。
 
 「南蛮吹き」には、鉛が必要だったが、この地は、米代川と藤琴川の合流点にあたり、米代川上流から運ばれる阿仁鉱山の銅、藤琴川上流から運ばれる太良鉱山の鉛、米代川流域の薪炭の入手には最適の地だった。
 
 また加護山では、文久2年(1866)から明治3年(1870)まで、8種類の貨幣が鋳造されたが、幕府の許可のない銭座であった。