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秋田県鹿角市花輪字荒屋敷

震災前取材

 

鹿角四頭の安保氏は鎌倉時代に地頭として鹿角郡に入部し、花輪城を築き花輪氏を称するようになる。鹿角は秋田の安東氏と三戸の南部氏のはざまにあったが、花輪氏は安東愛季と結び永禄8年(1565)に南部氏の勢力下であった長牛城を攻撃、奪取した。

しかしその後、南部氏が再び鹿角を奪還し安保氏は鹿角から退去する。安保親行は南部晴政に仕えたが、晴政が死去し南部信直が南部宗家を継ぐことになり花輪氏は一族離散の目に会うが、花輪親行の子である帯刀延親の代に信直に召し出され、九戸の円子村で200石を賜って円子氏を称した。

信直は大光寺正親を花輪城に置いて安東氏に対する拠点とし、その後明暦3年(1657)には毛馬内九左衛門長次が、延宝2年(1674)には中野吉兵衛康敬が城代として入城した。

花輪城は本館・北館・南館から構成される。本館は東西約200m、南北約110mで、西側が陣屋、武具蔵、八幡神社などがあり、本丸と呼ばれた。東側は一段低く二ノ丸とされ、代官所などが置かれた。

本館の南側には南館が、北側に北館がおかれ、さらに北館の東側にはゆるぎ館が位置している。これら花輪館のさらに東側には花輪古館が位置し、こちらは花輪氏、大光寺氏の時代のものと思われる。