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秋田県鹿角市十和田毛馬内字番屋平…仁隻寺

2011/10/02取材

 

内藤湖南の墓は、父、祖父の墓とともに、生地鹿角の仁隻寺にある。

湖南は、日本の戦前を代表する東洋史学者で名は虎次郎。湖南はその号である。邪馬台国論争や中国に於ける時代区分論争などで学会を二分した。

内藤家は、この毛馬内の邑主の桜庭氏に代々仕えた家系で、慶応2年(1866)この毛馬内に父内藤調一と母容子の次男として生まれた。13歳のときには『日本外史』を通読し、周囲を驚かせたという。秋田師範学校を卒業後、明治20年(1887)に上京し、仏教雑誌の記者となり、その後「大阪朝日新聞」や「台湾日報」などの編集で名を馳せた。

明治40年(1907)、京都帝国大学の文科大学史学科の講師として招かれ、明治42年(1909)に教授となった。足掛け20年を東洋史担当として勤め、京大の学宝とまで呼ばれるようになった。

内藤は、その独特の文化史観に基づき、中国史の時代区分で学界を二分する論争を起こし、また、邪馬台国論争で、九州説に対して畿内説を主張し、激しい論争を戦わせた。

昭和9年(1934)6月、京都で68歳で死去した。