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秋田県鹿角市十和田毛馬内字番屋平…仁隻寺

2011/10/02取材

 

仁隻寺は、この地を領した南部氏譜代の重臣桜庭氏の菩提寺である。

桜庭氏は、宇多源氏佐々木氏の流れで、桜庭良綱を遠祖とし、桜庭光康を祖と伝える。桜庭良綱は、南部の祖光行に従い、甲斐より糠部に下向し、安芸、福士、三上と並び、甲州以来の「四天王」の家柄である。

応永年間(1394~1428)、南部守行と出羽秋田の安東氏との合戦の際に、桜庭左近将監は敵地深く入り、四目結紋の立物の旗が千切れるほど奮戦し勝利を収めた。その後この戦いを記念して、釘貫紋を使用するようになった。また、桜庭光康は、南部政康、安信父子に仕え、三戸赤石舘に居し、天文3年(1534)の閉伊郡平定に抜群の功績を挙げ、その後閉伊に所領を持った。

代々三戸南部氏の重臣をつとめていたが、南部の相続を巡る争いでは、桜庭氏は北信愛とともに南部信直方につき、その後、桜庭直綱は信直の側近として活躍した。直綱は、南部の新領地の遠野に対する南部の支配を強め、謀略により阿曽沼氏を遠野から追い出すなど、遠野方面の南部氏の勢力伸張に大きく貢献した。また直綱は、天正18年(1590)の九戸陣に出陣、その後の出羽最上陣、岩崎陣、大坂陣と参陣し武功を挙げた。

明暦3年(1657)、桜庭光英のとき、秋田境の論争が幕府裁定に持ち込まれるなど藩境が緊張したため、藩境の押さえとして毛馬内に配された。この時、菩提寺として仁叟寺をこの地に建立した。

これまでの間、直綱の実弟で北信愛の養子となった北信景が、大阪の陣の際に南部藩を出奔し、大阪城に入り、戦後処刑されたが、桜庭氏は一貫して重臣として南部藩を支え続けた。