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秋田県鹿角市十和田錦木

2011/10/02取材

 

この鹿角の猿賀神社の地は、蝦夷と戦った田道将軍の最期の地であると伝えられる。この最期の地と伝えられる地は、関東、東北に数ヶ所ある。

日本書紀の仁徳天皇の条には、「55年、蝦夷叛きぬ。田道を遣して撃たしめたまふ。則ち蝦夷の為に敗られて、伊寺水戸に死りぬ。時に従者有りて、田道の手纏を取得て其の妻に与ふ。乃ち手纏を抱きて縊死にたり。時人聞きて流涕む。是の後に、蝦夷亦襲ひて人民オオを略む。因りて田道の墓を掘る。則ち大なるオロチ有りて、目を発瞋して墓より出でてクラふ。蝦夷悉オロチの毒を被りて多に死亡せぬ。唯一二人免るることを得たるのみ。故れ時人の云へらく、田道は既に亡にきと雖も、遂に讎を報ゆ。何ぞ死人の知無ならむやと」とある。

この地では「伊寺水門」は、この地の石野のこととされ、次のように伝えられる。

田道将軍は、仁徳天皇の命を受けて蝦夷征討に向った。将軍は、米代川を遡り、古真木の石野に上陸し、鹿角に攻め上った。鹿角の蝦夷達は、丸館の近くの軍森に集まり田道将軍の軍勢を迎え撃った。

戦が始まると、初めは戦上手な田道将軍の軍勢が勝り多くの蝦夷が討たれ、その首は蝦夷森に埋められた。しかし兵の数は蝦夷勢の方が多く、将軍は時には大蛇に姿を変えて戦ったが、朝廷軍は次第に押され始め、遂には田道将軍に蝦夷の放った矢があたった。

蝦夷の矢には毒が塗られており、将軍は苦しみながら、「死んでも大蛇になり、毒を吐いて蝦夷のことを亡ぼす」と言い残して死んだ。将軍の亡骸をこの地に埋め、石を置き、後に社を建てて猿賀さまと呼ぶようになった。

ある時、猿賀さまの墓を暴いたものがいたが、本当に大蛇が出てきてその者は大蛇に噛カまれて死んだと云う。

今もこの地の人達は、泣く子や弱虫の子が居ると、「しょうがんさまに連れて行かれる」「しょうがんさまきた」と言って脅かすと云う。