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五郎八姫(いろはひめ)は、文禄3年(1594)6月、伊達政宗と正室の愛姫との間に京都の聚楽第屋敷にて生まれた。政宗と正室の愛姫との間に結婚15年目にして初めて授かった待望の嫡出子であり、当然夫妻は伊達家後継者となる男児誕生を熱望していたのだろう。このため、男子名である五郎八しか考えていなかった政宗が、そのまま五郎八姫と命名したといわれている。

五郎八姫は、慶長4年(1599)、5歳の時、7歳の徳川家康の六男・松平忠輝と婚約することとなる。
これは、豊臣秀吉の遺言に違背するもので、これがその後の関ケ原合戦の遠因になる。慶長8年(1603)には伏見から江戸に移り、慶長11年(1606)12月に忠輝と結婚した。

忠輝は剛毅な性格だったようだが、父家康には反抗的で、短慮な行いも多かったようで、大坂の陣の際には、しばしば軍律違反もあった。さらには忠輝は切支丹で、同じ切支丹の豊臣秀頼と大坂の陣に際して裏約束があったとする説があり、また忠輝の岳父の伊達政宗が、忠輝の家老で佐渡金山を支配し幕府の勘定奉行だった大久保長安と近い間柄であったことから、幕府から警戒されたという説などもあり、忠輝の越後高田藩は元和2年(1616)改易された。

五郎八姫は、離縁となり、江戸の仙台屋敷へ戻された。忠輝と五郎八姫の間に子供は生まれなかったとされるが、一説には、この時五郎八姫は妊娠していたとも伝えられる。これが幕府の知るところとなればこの子の命は無く、政宗は幕府にはばかり秘密裏に出産させ、すぐにあきる野市の大悲願寺に預け出家させたという。

五郎八姫は政宗の勧めで江戸を離れ、仙台城の本丸西館で暮らした。伊達政宗は、時折大悲願寺を訪ねていたようで、出家して幽清と名乗っていた孫を、仙台へ連れ帰ったという。幽清がどのような生活を送ったのかは知る由もないが、仙台では母五郎八姫のもとで育ったのかもしれない。五郎八姫没後は菩提寺の天麟院の二世住持となり、母の菩提を弔ったという。

五郎八姫は大変美しく聡明であり、父・政宗を「五郎八姫が男子であれば」と嘆かせたほどであったという。同母弟で、仙台藩2代藩主の伊達忠宗も五郎八姫を頼りにしていたという。しかし、五郎八姫は、母愛姫とともに熱心な切支丹だったとされ、仙台藩は、切支丹の製鉄技術などの新技術のために切支丹には寛容だった。

しかし、幕府の切支丹への弾圧は厳しくなり、仙台藩でも、幕府の求めに応じざるを得なくなり、元和9年(1623)冬、奥羽山脈中に潜伏中のポルトガル人宣教師ガルバリヨ神父らが捕縛された。五郎八姫らの嘆願があったのだろう、政宗は布教しないことを条件に助けようとしたようだが、彼らはそれを拒否し、殉教を覚悟したガルバリヨと8名の領民が捕えられ仙台に護送された。 ガルバリヨらは厳寒のさなか、大橋の下の水牢で水責めにあい、全員殉教した。

父政宗の死後、五郎八姫は仙台市青葉区栗生の茂庭綱元の屋敷西館を貰い受け、修築して城を出てここに移り住んだ。政宗の死後、幕府はさらなる徹底した切支丹の取り締まりを要求してきたが、政宗亡き後の仙台藩にはこれに抗う術はなく、その後二度にわたり仙台領北部の大籠地区などで徹底した切支丹弾圧が行われた。

五郎八姫自身は、切支丹だからと言って特段に制約を受けることなどもなかっただろうが、仙台藩での切支丹弾圧には心を痛めていただろう。また弟の二代仙台藩主伊達忠宗や仙台藩の重臣たちは、五郎八姫の立ち居振る舞いに不安を持っていただろう。そのようなことからか、伊達忠宗は西館の近くの大梅寺に、瑞巌寺の名僧雲居禅師を迎え、五郎八姫の相談役としたようだ。

五郎八姫の住む栗生一帯には、弾圧を免れた切支丹たちが多く住み着くようになったと考えられ、かつてライ病患者が住んでいるとの風説があり、この地にあまり人を近づけたくなかった藩の意図とも推測できる。

五郎八姫は、これらの切支丹の人々が、自分と同じように、心の中だけでも信仰を持ち続けられるように考えたのかもしれない。五郎八姫は、西館の北側に薬師堂と鬼子母神堂を建立した。薬師堂には、「ローソク食い」と呼ばれている不思議な立像があり、その姿は、外国の宣教師のようでもあり、蝋のついた下唇には、隠されたように十字の印が刻されているという。

また鬼子母神堂は、「盗人神(ぬすっとがみ)」、「唖神(おっつがみ)」とも呼ばれ、祭の夜は、信者の家長が袴を着けた礼装で、家族とも一切口をきかず、代々伝わった供物の膳に葦の茎の箸12ぜんの束を添え 、音もなく捧げに行く。お詣りの往復に他人に見付からないように、信者同志でも逢わないように、口をきかずに無言で、かくれしのぶようにお詣りをする習わし になっている。

堂内に祀られている御本尊は、20cm程の木像で、右手に幼児を抱き、左手にザクロの実を捧げた立像で、聖母マリア像を思わせる。祭日の8月15日はマリアの昇天の日だといい、また供物の12ぜんの箸は、キリストの12使徒を連想させる。このようなことから、この地の薬師堂と鬼子母神堂は、五郎八姫が、領民の隠れ切支丹のための祈りの場として建立したものと考えられる。

万治元年(1658)、五郎八姫65歳のとき、弟忠宗も亡くなり、このとき落飾し「天麟院瑞雲全祥禅尼」と号した。この時期には五郎八姫も雲居禅師の教えもあり、切支丹であっても鬼子母神をマリアとして心の中で祈ることができるというような「信仰の自由」の域に達していたのかもしれない。その3年後、病を得て68歳で平穏裡に生涯を終えた。

廟所は松島町の天麟院にあり、一子幽清は、天麟院の二世住持となり、母五郎八姫の菩提を弔ったという。