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三陸中部の閉伊郡から気仙郡の一帯は、中世には閉伊氏により支配されていた。閉伊氏は、保元の乱(1156)において大活躍を示した鎮西八郎源為朝の子孫と伝えられている。すなわち、保元の乱に敗れた為朝は伊豆大島に流刑の身となり、大島において島冠者為頼を生した。閉伊氏はこの為頼を始祖としているとされる。

為頼は鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕え、奥州合戦後に頼朝から奥州閉伊郡の地頭職を給わった。しかし、気仙郡には熊谷氏が勢力をはり、石巻には奥州総奉行として葛西氏がこの地方の最大勢力としてあり、さらに西の遠野には阿曽沼氏があり、北の八戸には南部氏があり、閉伊氏の勢力は高いものではなかったようだ。

為朝を祖とする閉伊氏は、源頼朝が生存中の初期には、源氏の有力な血統として敬意を集めていたのかもしれないが、木曽義仲、源義経、源範頼らが、その血統ゆえに危険視され排除されていく中で閉伊氏も抑えられていたようで、それは、二代将軍源頼家時代に、為朝の孫娘にあたる辻殿が正室となり、その子の公暁が三代将軍源実朝を暗殺したことで、閉伊氏の中央での力は失われたと推測する。

しかしそれでも閉伊地方では、閉伊頼基(為頼?)頃までは、その伝説的な名声は残っていたようで、その没後に宝剣の傍らに葬るように遺言し、釜石の尾崎神社の日本武尊の宝剣の、守護者のような形でその名を残している。またこの時の殉死者に、源義経に従った九州の緒方氏の家臣の阿蘇氏の名前がある。

当時は、平泉滅亡後、その残党の大河兼任が乱を起こした後であり、閉伊氏は、現在の宮古湾に注ぐ閉伊川流域を所管し、千徳城、田鎖城を拠点に統治にあたった。

閉伊地方には、義経北行伝説が伝えられ、ここではそれは大河兼任の乱がモチーフとなっていると推測している。この義経北行伝説の中の久昌寺に残る伝説は、源義経、大河兼任にシンパシーを持っていた閉伊氏に関わるものではないかと考えられる。

宮古の久昌寺の地には、かつて源氏の一族である源義里が居館を構えており、平泉を脱出した義経主従が北へ向かう途中立寄ったと伝えられている。義経はこの地をあとにし、三陸海岸沿いに八戸に向かう。またこの久昌寺には、源義里の妻が奉納したという鰐口が残っている。

南北朝期の時、閉伊親光は南朝方の北畠顕家の在勤する多賀の国府へ參府し、領地の安堵を願い出て、南朝方として行動していた。しかし延元3年(暦応元年=1338)、北畠顕家が戦死すると、南朝方は衰退し、閉伊氏は北朝方に転じたようだ。そのためか、正平10年(1355)閉伊氏は南朝方の南部政行に攻められ敗れ没落した。

この頃から閉伊氏宗家は田鎖姓を名乗るようになり、一族は分裂し、争いが多くなったようで、それでも田鎖氏は、この地域では力を持ち、松山館の白根氏、折壁館の伊藤氏など近隣の土豪と幾度となく戦ったが、常に他領に軍を進めて戦い、田鎖城が戦火にまみえることはなかった。

田鎖城は、閉伊川南岸の田鎖山塊の先端の、標高約50mの台地に位置している。尾根続きの基部は空堀で断ち切られ、二の郭、副郭と続き、その規模は東西約380m、南北約420mである。主郭、二の郭、物見台、空堀などが遺構として見られる。

しかし、その後の応永から永享のころ(1394~1440)、南部守行が閉伊を征伐した際には、閉伊一族は宗家の命に従わず南部氏に従い、一族はそれぞれ一家をなして、田鎖氏も一国人として南部氏に組み込まれていった。

宮古の真崎海岸付近に伝えられる正清伝説は、この時代の閉伊氏一族間の争いからのものではないかと思われる。

かつて真崎海岸近くの高台に、正清という武将が館を構えていたという。正清には「おつる」と「おたま」という二人の娘がおり、この地で穏やかに暮らしていた。正清は、身の丈六尺余の豪勇の士で、知略にたけ、多くの敵と戦いながらも常に勝ち、この地を支配していた。正清の居城の入り口は岩窟で、そこには敵が侵入すると鳴り出す鼓岩があり、これにより敵の侵入を事前に知ることができたと云う。

この二人の娘のうちの姉のおつるは、ある頃から敵方の若者と恋に落ちた。若者は夜ごとおつるに会いに来るが、敵の侵入を察知して鳴るという鼓岩に阻まれおつるの元へはたどり着けないでいた。そのためおつるは、愛しい人に会いたさから、父が留守の時に鼓岩を壊してしまった。鼓岩を壊したことを聞いた若者は、なんなくおつるに逢うことができ、二人は燃えるような恋に落ちた。

正清は、そんなこととはつゆ知らず、年頃になる二人の娘のために、今まで貯めた財宝を持ち、翌春には里に居をかまえるつもりでいた。しかし、進入を妨げていた鼓岩が壊れたことをしった敵は、その年の暮れ真崎へ攻め込み、正清もろとも二人の娘も惨殺されてしまった。

正清は娘のために蓄えた財宝の場所を示すものとして『朝日とろとろ、夕日輝く曽根の松、うるしまんぱい、黄金おくおく』と、謎めいた呪文を残し、その後、それを知った里人たちの何人かが財宝を探したが見つけられてはいない。

天正18年(1590)、奥州仕置によって田鎖氏は三戸に至り、南部信直に臣従したようだ。天正19年(1591)の九戸政実の乱の折には、一族の千徳氏などと共に、南部氏、九戸氏のいずれにも味方せず、静観の態度をとり続けたためだろう、豊臣秀吉の朝鮮出兵による名護屋城参陣の留守中に、田鎖城は千徳氏の千徳城とともに、南部氏により密かに破却された。

しかし、それでも日本武尊とその宝剣伝説により、尾崎神社はこの地の歴代領主が尊崇するところとなり、江戸期に入っても、代々の南部藩主にも崇敬され、直参、代参がしばしばなされた。

閉伊氏が去った閉伊地方は、米の栽培には不適な地だったが、稗貫和賀一揆で南部利直に従い活躍した大槌政貞が領し、政貞は、この地の振興をはかり、三陸海産物の江戸向け出荷の橋渡しをして商路を開拓、塩蔵の南部鼻曲がり鮭はその代表的な商品となった。しかしそれも大槌政貞が南部利直により謀殺され、また当時財政難に陥っていた南部藩による過重な収奪によりこの地方は困窮した。

さらに、江戸時代後期には、この地方ではタタラ場が設けられ製鉄産業が盛んになったが、これにも重税がかけられ、これが国内最大の三閉伊一揆につながっていく。