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日本武尊を祭神とし、古くからこの地の人々の信仰をあつめている尾崎神社の本宮は、釜石市の平田駅から東に尾崎半島の山道をおよそ4km行ったところにある。

尾崎神社の創建については、定かではないが、日本武尊の伝説を伝え、また古くから海の神として信仰をあつめていたようで綿津見神をも祭神として祀っている。日本書紀には蝦夷を平定し、蝦夷の王に「吾は是、現人神の子なり」と告げたと記されている。これらのことから、当初は土俗的な自然崇拝の地であったものが、大和朝廷の勢力伸長とともに、日本武尊が祭神となったと考えられる。

尾崎神社には「奥の院」「奥宮」「本宮」があり、近郷近在の人々からは「おさきさん」の愛称で親しまれ、今も漁業、商業、農業、工業を営む人々から篤く信仰されている。

尾崎半島の中央部にある奥の院には、日本武尊が岩に突き刺したとされる宝剣が、そのまま今も残っているとされる。地上部に1.2mほど出ており、触れてはならないと伝えられており、地中の長さやその成分など、調査はされていないと云う。

本宮には、新日本製鉄などが奉納した大小の「宝剣」が境内にある。釜石は製鉄の町で、江戸時代から近現代にいたるまでの日本の製鉄の歴史の最先端を走ってきた。この尾崎神社の宝剣伝説は、いかにも鉄の町釜石にふさわしいものと思われる。しかし、この地の宝剣伝説は近現代のものではなく、はるかに歴史を遡る日本武尊の時代のものなのだ。

一般的には、東北地方の製鉄技術は、南東北の福島の相馬周辺が大体7世紀後半、そこから北上して宮城→岩手と遺跡が出現する。秋田に至っては8世紀中頃、つまり秋田城が築城されてからである。しかしこの地の伝説は、それよりさらに古い2世紀末の神話の時代に遡る。

この伝説が、史実に即したものとすれば、蝦夷征討に際してのものかもしれない。岩手県内では、古代、中世の製鉄遺跡は、ほぼ沿岸中部に偏重している。これは当時の製鉄が、砂鉄を原料としており、釜石を中心とした地は、良質な砂鉄が採れたためと考えられる。

『尾崎神社縁起』によると、尾崎半島は日本武尊が東征した折りの最終地点であり、この鉄剣はその足跡の標として尊が安置したものとされる。以来、尾崎神社は日本武尊を祭神とし、奥の院にあるこの宝剣を神体として祀ってきたものという。

しかし、この地が製鉄の地の釜石であることから、個人的には日本武尊らが、蝦夷征討のために北上し、この地で鉄製の武器をつくり、戦勝を祈願して、作成した剣の内の一本を奉納したと推測する。

この地域一帯は中世には閉伊氏により支配されていた。閉伊氏は、鎮西八郎源為朝の子孫と伝えられ、為朝が伊豆大島に流刑となり、大島で生まれた島冠者為頼を始祖としているとされる。その後為頼は源頼朝に仕え、奥州合戦後に頼朝からこの閉伊郡の地頭職を給わり、頼基の時の建久元年(1190)下向し、閉伊氏を名乗ったと云う。

承久2年(1220)、頼基は没すると、その遺言によりこの宝剣の地に葬られた。このとき、七人の重臣が殉死し、頼基の嫡子の家朝はその志を憐れみ、七社の明神に斉祀したという。閉伊氏の出自は不明な点が多く、伝説の域を出ないが、それでも閉伊地方には閉伊氏の一族のものではないかと思われる伝説が散在する。