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慶長5年(1600)、6月17日、政宗は関ヶ原の戦いを前にして、徳川家康より、会津の上杉景勝を背後から牽制する命を受け、大坂を経ち帰途に着き、途中相馬領を通過することになった。

この時期の相馬氏は、伊達稙宗の遺領を巡る争い以来、伊達氏とは敵対関係にあり、さらにその後、佐竹氏の反伊達連合に加わり伊達氏と戦っていたが、戦況は刻々と相馬氏の退勢となり、ついには存亡の危機を迎えた。

しかし、豊臣秀吉の小田原征伐が進められ、伊達政宗も相馬義胤も小田原に参陣し、相馬氏は「奥州仕置」の結果、宇多・行方・標葉三郡四万八千七百石を安堵され、伊達氏との抗争もとりあえず決着し、滅亡の危機はさった。

慶長5年(1600)の「関ヶ原の合戦」には、伊達氏への対抗上、佐竹氏との深い関係もあり、石田方である上杉氏に通じて、家康の召しに応じなかった。

このような中、仇敵ともいえる伊達政宗が、わずかな供回りで相馬領を通るという。それを知った相馬家中は、一族の者共集まり、対応を評議した。相馬家は政宗への恨み深く、当主義胤の弟隆胤を討たれており、その無念も有り、相馬領に入ったところで政宗を討ち果たそう、との論が大勢をしめた。

しかし、家老の水谷胤重は、政宗を討つことは容易でも、その後の伊達家全軍上げての報復に耐えられるのか、また、徳川家康にも逆らうことになり、場合によっては相馬家の滅亡すらありうることを説いた。相馬義胤はこれに同意し、政宗の領内通過を許可した。

政宗は400騎ほどで相馬領に入り、正西寺に入り、鉄砲・弓・槍で武装した兵を三重に配置し厳重に警備させた。相馬義胤は政宗に、兵糧300俵・大豆100俵を贈ったが、政宗は謝意を表しこれを断ったという。

この話には異説もあり、伊達政宗の相馬領通過は謀であり、伊達の大軍が両境の駒ヶ嶺城に入っており、相馬勢が政宗を襲うようなことがあれば、一気に相馬氏を攻撃する手はずだったとも伝えられる。

相馬氏と連携して行動する佐竹氏は、上杉方として、神指城築城に兵を出し、また、白河で北上する徳川勢を迎え撃つ上杉景勝に呼応し戦うことを意図し、棚倉の赤館城に出陣した。

また伊達勢は、徳川家康の出陣とほぼ期を一にして、岩出山を出陣して、仙台北目城を本陣として上杉の勇将の甘糟景継の守る白石城を伺った。伊達政宗は、甘糟景継が東軍が反転西上する上での会津若松での軍議のため白石城を留守にしていることをつかみ、一気に白石城を攻めてこれを落とし、福島城を攻める拠点とした。

9月15日、徳川家康は関が原において石田三成率いる軍勢をわずか半日で壊滅させた。そして9月21日、近江国で捕らえられた三成は、10月1日、京都三条河原で斬首され、近畿における騒乱は一応の終結を見た。

伊達政宗は、関ヶ原後の混乱に乗じ、父祖の地を奪還しようと、伊達勢二万が上杉勢六千がこもる福島城を攻め立てたが、福島城近く松川の戦いで撃退され、伊達勢は敗れて白石城へ退いた。

ここまでの関ヶ原の戦いを巡っての一連の戦いで、佐竹氏に与していた相馬氏は、結果として戦うことはなく佐竹氏とともに西軍として領地没収の恐れもあった。一説によれば、伊達政宗は相馬領通行の際の、水谷胤重からの恩義に報いる意味をこめて、月夜畑周辺の上杉領へ、伊達勢と連携し侵攻することを持ち掛けた。

月夜畑周辺は、かつては大内定綱が領しており、伊達政宗の小手森城攻めにより撫で切りにあった地域だった。その後の奥州仕置きなどで、この地から伊達氏や大内氏は去り、会津の上杉領となっていた。会津からすればこの地は辺境の地であり、この地は、石川某ら数人の土豪が束ねる、政治的にも軍事的にも重要な地ではなく、時折、上杉氏をはじめとした近隣大名の要請で傭兵を出したりしていた。

相馬氏は、この時期、上杉氏と連携し動いていた佐竹氏の与力として、結果として日和見にまわり、何もすることはなかった。佐竹氏は改易の噂も出ている中、相馬氏も改易、家名断絶になる恐れも十分にあり、伊達勢とともに月夜畑侵攻をすることは、関ヶ原の戦いにおいて、東軍側として戦ったアリバイになるものだった。

水谷胤重は相馬義胤にこれを進言し、慶長6年正月20日に伊達勢とともに上杉領・月夜畑城に夜襲をかけた。しかし伊達にとってはこの戦いは他人事であり、相馬にとっても単なるアリバイづくりのもので、兵は領内外からかきあつめた野盗のたぐいの者たちであり、戦意は低かった。

これに対して伊達勢の夜襲と聞いた月夜畑兵たちは、帰農しているとはいえ、かつては伊達の強兵と戦い、なで斬りにされた恨みもあり、隠し持った弓鉄砲を持ち出し頑強に戦い、これを撃退し、相馬勢は150名、伊達勢は250名もの死者を出した。

関ヶ原の戦いの論功行賞が進む中、相馬家には戦後、家康からは何ら音沙汰がなかった。音沙汰がないままに半年ほど経った慶長7年(1602)5月、常陸水戸城の佐竹義宣より飛簡が到着した。

それによると、佐竹義宣は石田三成と結託していたことが顕かとなったため、
(1)佐竹家八十万石は没収のうえ、出羽国秋田砥沢二十万五千石へ転封の事
(2)岩城貞隆・相馬義胤の両名は佐竹家一門であるから領地召し上げの事
(3)岩城家・相馬家は佐竹家とともに秋田へ移るべき事
以上の命が下ったことを伝えるものだった。義宣からは、相馬家分の領地についての沙汰は下っていないが、ともに秋田へ参られるのなら一万石を配分する旨が記されていた。

家臣一同にこれが知らされ、諸臣は驚愕し途方に暮れた。義胤はしばらく思案し、「家の破滅、時至ると見えたり。この儀沙汰に及ばず、秋田へ移るの他異儀なし。」と諸臣に告げたが、義胤の嫡男・孫次郎三胤は、自ら江戸へ出て家康・秀忠の怒りを鎮め、相馬家を残すことができるのならば本望であり、佐竹家の家臣となるならば家が滅んだほうがましであると発言した。

義胤もこの意見をもっともであるとし、義宣へは丁重な断りの手紙を出し、同年6月徳川家の使いに、領地、城を明け渡し、一旦、相馬家は改易された。

相馬三胤は、三成ゆかりの「三胤」を憚って「蜜胤」と改名、相馬領を明け渡した6月2日、蜜胤は、十四人の家臣とともに江戸へ出立した。水谷胤重は、月夜畑で討ち死にした者の名簿を証拠として持参し、関ヶ原の戦いの際には、伊達氏とともに上杉方と戦ったとし、家康側近に評定のやり直しを願い出た。

その後、伊達政宗のとりなしもあったとされ、三代将軍家光の誕生を機に許され、慶長9年(1604)、本領などを回復し、大名に復帰した。