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豊臣秀吉の死後、慶長5年(1600)6月、徳川家康は会津征伐のため出陣した。家康は、南部氏、秋田氏、戸沢氏・小野寺氏などに、出羽の最上義光を主将として米沢口から会津に侵入するようにしていたという。また伊達政宗には信夫口から、上杉領侵攻を命じていた。

奥羽の諸氏は、佐竹氏と相馬氏以外の殆どは徳川家康に従っていた。しかし表面的にはともかく、戦国期末期の奥羽の諸氏間は争いを引きずっており、隙あらばと、徳川家康と石田三成の争いを注視していた。

特に出羽における秋田氏、戸沢氏、小野寺氏、由利十二頭などは、それぞれに隙あらばと狙っており、その争いの中では、徳川方としてあっても上杉の敵ではなかった。また、奥羽諸氏は徳川家康には表向き従ってはいるものの、最上義光を徳川方の主将として上杉勢と戦う意欲はあまりなかった。

また、南部氏と伊達氏は、旧和賀・稗貫領を双方狙っており、上杉氏と全面的に対峙する様子はなく、徳川家康と石田三成の争いの混乱に乗じての勢力拡大を目指しているだけだった。関ケ原の戦いに際しての上杉氏にとって奥羽の戦略的敵は、米沢口の最上義光と、信夫口の伊達政宗だった。

上杉方として、奥羽における信頼できる勢力は、佐竹氏だけだったが、上杉氏の勢力は、主敵の最上氏や伊達氏を凌駕するもので、徳川方の勢力に負けるものではなかった。

上杉方の戦略の第一は、徳川方に対峙する上で、その背後を脅かす最上勢を、米沢の直江兼続を主将として徹底的に打ち破ることだった。また信夫口から白石、福島へと侵攻が予想される伊達勢に対しては、勇将本庄繁長を主将として福島城を拠点として信夫口を固めた。北上する徳川勢本隊に対しては、上杉景勝を主将とし、長沼城を本陣とし、棚倉の赤館の佐竹義宣、背後の最上勢を破った後の直江兼続勢を後詰とし、西の石田三成勢と連携し白河革籠原で野戦を戦い、状況によっては、江戸に攻め上る、のようなものだったと思われる。

慶長5年(1600)6月、徳川家康は、徳川方の西軍諸将の動きを慎重に見定めながら、会津征伐のため出陣したが、7月24日、下野小山において石田三成の挙兵を知って、東軍は反転西上することになった。家康は奥羽諸将を山形に集結させ、最上義光を米沢口の主将としていた。

徳川家康の出陣とほぼ期を一にして、伊達政宗は岩出山を出陣して、仙台北目城を本陣として上杉の勇将の甘糟景継の守る白石城を伺った。伊達政宗は、甘糟景継が東軍が反転西上する上での会津若松での軍議のため白石城を留守にしていることをつかみ、一気に白石城を攻めてこれを落とし、福島城を攻める拠点とした。

家康は、東軍諸将を先遣隊として東海道より西へ軍を進め、自身は江戸で東軍諸将の引き留めおよび西軍の切り崩し工作を行ったため、奥羽諸軍は自領に引き上げてしまった。9月1日、岐阜城落城の知らせを受けると、家康勢は江戸より出陣し関ヶ原に向かい、また、徳川秀忠勢も上田方面から関ヶ原に向かった。これにより上杉氏に対する家康の脅威は減少し、上杉景勝は義光を無力化しようと、米沢の直江兼続勢を山形に向けた。

慶長5年9月8日、上杉軍は米沢と庄内の二方面から、最上領へ向けて侵攻を開始した。上杉勢は総兵力は2万5000人で、狐越街道、中山口などに分かれそれぞれ進軍した。最上軍の総兵力はおよそ7000人にすぎなかったが、堅城長谷堂城を中心に地の利を生かして奮戦した。

9月1日、家康が江戸を出立すると、東軍主力諸将が関ヶ原に南西部に布陣を始めた。9月7日、毛利秀元、吉川広家が南宮山に着陣。9月14日には、徳川家康が赤坂に着陣。同日、小早川秀秋が関ヶ原南西の松尾山城に入り、西軍の大谷義継も関ヶ原に着陣した。

翌日の9月15日、関ヶ原にて東西主力が激突、東軍が勝利した。翌日、家康は佐和山にまで軍を進め9月17日、佐和山城は落城した。毛利輝元は戦わず、輝元と家康との間で黒田長政・福島正則を介し和睦が成立し、9月25日、輝元は大坂城から退去した。石田三成、小西行長らは捕縛され、10月1日、京六条河原にて斬首された。

この関ヶ原本戦の早すぎる決着が、9月29日に、直江兼続のもとにもたらされた。最上勢も関ヶ原の結果を知ることとなり、攻守は逆転、上杉勢は撤退を開始、最上勢はこれを追撃し激戦となり、両軍多くの死傷者を出した。最上勢は全戦線で反攻に転じ、庄内に攻め込み、庄内から上杉勢を一掃した。

奥羽の関ヶ原は、本戦の西軍の敗戦によりあっけなく幕を閉じた。西軍の、江戸を東西から挟撃するという戦略は西軍にとって有利なもので、奥羽における上杉氏や佐竹氏の西軍勢力は、東軍にひけをとるものではなかった。

結果論にはなるが、徳川勢の勝利は石田三成らの西軍の幕閣らが、大阪方中枢は勿論、毛利輝元の信頼を得られなかったからだろう。石田三成や上杉景勝らの西軍の若き幕閣らは、戦国期からの恩顧などの建前に美意識を持ち、秀吉以降の天下のあり様についての具体性が不足していたのかもしれない。

また、関ヶ原本戦の早すぎる決着が奥羽における西軍の敗北につながったのだが、上杉勢が関ヶ原本戦前に、乾坤一擲最上勢を一掃し、徳川勢を白河で迎え撃つ、あるいは江戸に向かい追撃してれば、状況は変わっていたかもしれない。