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福島県棚倉町の蔵光寺には、「新田義貞の墓」があり、また「将軍地蔵」と呼ばれている地蔵菩薩がある。この将軍地蔵尊は、新田義貞の恋人の勾当内侍が、この地に難をのがれたとき、守り本尊の 地蔵菩薩を携えて来たのを将軍地蔵尊として祀ったものと伝えられる。

新田義貞は、上野国新田荘の御家人であったが、元弘の乱(1331~1333)では後醍醐天皇に呼応して、足利尊氏に従い、鎌倉討伐軍に参加する。義貞の軍はいち早く鎌倉に侵攻し、一族郎党を率いて稲村ヶ崎を突破し、楠木正成討伐のため手薄になっていた鎌倉を攻め、東勝寺合戦で鎌倉幕府・北条得宗家の本隊を滅ぼすという軍功を立てた。その後、時代は後醍醐天皇のもとでの建武の新政となったが、義貞は足利尊氏と対立し、南北朝に分裂すると南朝方の旗頭となった。

勾当内侍は、公家の世尊寺家の一族で、または一条行房の娘もしくは妹ともいう。後醍醐天皇の女官であり、和歌の名手としても伝えられている。鎌倉陥落に大きな功績のあった新田義貞へ、天皇からの恩賞として与えられ、彼の妻になったとされる。

ある秋の夜、勾当内侍は簾を半ば巻きあげて琴を弾いていた。後醍醐天皇に近侍していた新田義貞はその琴の音に魅了される。義貞はそれをのぞき見し、琴の音だけではなく勾当内侍の姿にもすっかりと心を奪われてしまった。

義貞は意を決し、人伝いに勾当内侍へ歌を贈った。しかし、勾当内侍は帝をはばかり、歌を手に取ろうともしなかった。義貞はこのため鬱々と思い悩んでいた。後醍醐帝は、この噂を耳にし、義貞と勾当内侍の仲をとりもった。

後醍醐帝の下で、新しい政治がしばし行われていたが、3年も経たずに後醍醐天皇と足利尊氏とは対立するようになり、後醍醐天皇に近かった義貞は、北畠顕家や楠正成とともに足利尊氏を破り、尊氏を九州へ奔らせたが、尊氏は九州を平定し、再起をはかり海路東上してきた。このとき、宮方の総大将新田義貞は、義貞を慕い訪ねてきた勾当内侍との別れを惜しみ、進発が遅れ、敵陣を攻めきれないまま京へ後退した。

この敗北で、義貞は和議を求める後醍醐天皇から退けられ、北陸道を猛吹雪の中、越前の金ヶ崎城まで逃げて篭城し足利軍と戦うがこれも敗れた。それでも、後醍醐天皇の皇子の恒良親王、尊良親王を奉じて越前国を拠点として一時勢力を盛り返したものの、越前藤島城を巡る戦いで戦死した。首級は京に運ばれさらされたと云う。

勾当内侍は都に近い琵琶湖畔の漁師小屋に身をひそめ、義貞の迎えを待った。3年の月日が経ち、待ちに待った便りが来る。「今は道のほども、しばらく静かになりぬれば」とあり、にわかに夜の明けた心境の内侍は、越路の旅を急いで義貞のもとに着くと、義貞はすでに転戦して、そこにはいなかった。

落胆した内侍は、忍んで、都へ戻ると、すでに義貞は戦死し、三条河原でさらし首になっている義貞の首を見る。勾当内侍はその首をもち帰り、髪をおろして尼となり、嵯峨野の奥、往生院あたりの柴の庵に行いすまし、義貞の菩提を弔ったという。

新田義貞に関わる伝説は、戦死した藤島をはじめとし、全国各所に伝えられる。後年、軍記物の『太平記』で、後醍醐天皇より下賜された女官である勾当内侍との別れのエピソードなどとともに取り上げられ、広く伝えられたと考えられる。

この蔵光寺には、次のように伝えられる。

勾当内侍は義貞の首級と守り本尊の地蔵菩薩を携え、侍女と共に八溝の山を越えこの地に至った。しかし内侍は、この地で長旅の疲れから病を得てこの地で体をいやした。里人たちはこれを憐れに思い、内侍のために粗末な家を建て世話をした。内侍は里人らの優しさに心を打たれこの地に留まることとし、携えてきた守り本尊の 地蔵菩薩を将軍地蔵尊として祀り、義貞の首級をこの地に葬り墓を築き、侍女と共に日夜供養を重ね、手厚く霊を弔ったと云う。

またこの地は、新田義貞とともに鎌倉を攻めた、南朝方の雄の白川氏の領地であったことから、何らかの史実が含まれている可能性も考えられる。