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慶長5年(1600)、上杉追討のため会津に向かい北上していた東軍諸大名は、石田三成らの挙兵の報を受けて、7月25日に下野国小山において、家康と軍議を開き、会津征伐中断と軍勢の西上を決定し兵を返すことになった。

徳川家康は、上杉勢に対しては、東北諸将に対して、出羽の最上義光を中心としてことに当たるよう命じて、関ケ原に向かった。しかし、最上義光以外の東北諸将は、それぞれの意向に従い自領に戻り、あるいは関ケ原の混乱に乗じて動き始めた。

伊達政宗は、父祖の地奪回のため、上杉領となっていた白石城を攻略した。しかし関ヶ原本戦が予想より早く東軍の勝利に終わったことを知ると、白石から国見峠を越えて、信達盆地に2万の大軍で侵攻した。

上杉勢は、庄内で最上義光と戦い庄内地方を上杉にもたらした、歴戦の勇将、本庄繁長を守将とし、福島城を拠点として、梁川城の須田長義とともに兵5千で迎撃にあたった。

政宗は国見山に本陣を置き、伊達勢は摺上川を渡河し始めた。戦いは、摺上川の下流を渡河した伊達の屋代隊と、上杉の小田切隊との間で始まった。小田切隊は手強く戦い、緒戦は上杉軍の優勢であった。しかし、多勢に無勢、茂庭隊を阻止することができるはずもなく、やがて渡河した茂庭隊を正面にして奮戦したが、たちまち斬り立てられた。伊達の屋代隊に茂庭隊が合流し、上杉勢はついに支えきれず退却をはじめた。伊達の大軍は川一面に広がって渡河を開始しはじめた。

伊達勢は摺上川をわたり、繁長は果敢に城を打って出て、宮代、瀬上付近で野戦をしかけたが破れ、上杉勢は福島城へ退き篭城した。伊達勢は米沢と福島間を完全に封鎖し、福島城の目と鼻の先である信夫山の麓の黒沼神社周辺に本陣を置いた。伊達勢は福島城を激しく攻めたが守りは固く、伊達勢にも死傷者が続出した。このため一旦陣を国見山まで下げることになった。

上杉の須田長義は梁川城で守りを固め情勢を窺っていたが、伊達勢が国見に引き上げていくという報告が入り、これを討つべくただちに出動を命じた。当時、松川の流路は信夫山の南麓を流れており、福島城の囲みをといた伊達勢は松川を渡河中だった。須田勢はこの伊達勢後尾の荷駄隊を襲った。渡河の途中で背後から追撃を受けた伊達勢はたちまち大損害を受けて川中に追い込まれた。

この報に勢いをえた福島城の上杉勢は、城門を開き、決死の覚悟で伊達勢の密集部隊のなかに突入した。すでに浮き足立っていた伊達勢は大混乱に陥いった。このとき、伊達家の「竹に雀」の定紋の帷幕が上杉勢によって奪われたという。また一説には、上杉勢は、政宗の本陣深く斬り込み、政宗に二太刀まで斬り付けたとされるが詳細は定かではない。

伊達政宗は上杉勢の反撃に、宮代の泉性寺の銀杏の木に馬を繋ぎ、陣を構えて、軍議を開いたという。

結局本条繁長は福島城を守り抜き、関ヶ原戦後も福島城代を務め、上杉氏の重臣として直江兼続とともに家中の再建にあたり、慶長18年(1614)、74歳で没した。