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宮城県村田町の一地域に住んでいる方々の多くは、「渡辺」姓であり、かつて源頼光四天王の一人として鬼の酒呑童子を退治をした渡辺綱の末裔と伝えられる。

定説によれば、渡辺綱は武蔵国の住人で武蔵権介だった嵯峨源氏の源宛の子として武蔵国足立郡に生まれた。その後、摂津国西成郡渡辺に移住し、渡辺綱と称し、渡辺氏の祖となった。

酒呑童子は、大江山に住んでいたと伝わる鬼の頭領。大江山では洞窟の御殿に棲み、茨木童子などの数多くの鬼共を部下にしていたという。源頼光は家来の藤原保昌・渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・占部季武を引き連れて大江山に出向き、八幡・住吉・熊野三神の加護を得ながら酒呑童子一味を見事討ち果たす。

酒呑童子は最終的に源頼光とその配下の渡辺綱たちに太刀で首を切断されて打倒された。一行は、山に囚われていた姫を救い出し、酒呑童子の首を土産に都へ凱旋した。東京国立博物館が所蔵する太刀「童子切」は酒呑童子を退治した伝承を持ち、国宝に指定され天下五剣にも選定されている。

この大江山の戦いから酒呑童子の舎弟の茨木童子は逃れ、後に京都の一条戻橋で渡辺綱と戦い、それが村田町の伝説のモチーフになったようだ。また、一条戻橋の上で茨木童子の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話でも有名である。

茨木童子は一説として酒呑童子と同じく越後出身との説がある。茨木童子は現在の長岡市の生まれで、弥彦神社に預けられていたとされる。「茨木」姓が多く、茨木姓の家では節分に豆をまかない習わしがあるという。

渡辺綱が馬で堀川にかかる一条戻橋のところに来ると、若い美女が道に困っていたため、渡辺綱が馬に乗せてやると、女は突然鬼の姿になって綱の髪の毛を掴み、空中に飛び上がって愛宕山に連れ去ろうとした。綱は慌てず名刀・髭切で鬼の腕を切って難を逃れた。

綱は、切り取った鬼の腕を源頼光に見せた。頼光が陰陽師に相談したところ、「必ず鬼が腕を取り返しにやって来るから、七日の間家に閉じこもり物忌みをし、その間は誰も家の中に入れないように」と言われた。それから数日間、茨木童子はあらゆる手を用いて綱の屋敷へ侵入しようとするが、綱の唱える仁王経や護符の力で入ることができなかった。

ついに七日目の晩になって、摂津の国から綱の伯母が綱の屋敷にやってきた。綱は事情を話し決して伯母を屋敷に入れなかったが、年老いた伯母は「幼いころ大切に育てた報いがこの仕打ちか」と嘆き悲しんだので綱は仕方なく言いつけを破って伯母を屋敷に入れる。伯母は、綱が切り取ったと言う鬼の腕を見たいと言い、封印された唐櫃から出されてきた腕を手にとってじっくり見ていると、突然、伯母は鬼の姿になった。この伯母は実は茨木童子の化けた姿であった。そして腕を持ったまま飛び上がり、破風を破って空の彼方に消えたという。

村田町に伝えられる伝説では次のようなものである。

昔、京都の朱雀大路の南端の羅生門に、いつの頃からか鬼が現れ、人々を悩ませていた。それを聞いた源頼光四天王の一人、渡辺綱は、早速羅生門へ鬼を退治に向かった。 果たして鬼は 現れ、激しい戦いになった。そして、その戦いの末、綱は鬼の右腕を切り落と した。鬼は「いつか腕を取り戻してやる」と叫び、そのまま逃げ帰った。 綱は、切り取った腕を石の箱に厳重に収め、逃げた鬼を追いかけ日本全国を旅し、ついにこの村田の地へやってきた。

綱がこの地に滞在していると、ある日、伯母が訪ねてきた。そして、切り落とした鬼の腕を見たいと言い綱に何度も頼んだ。 綱は伯母の頼みを断りきれず、石の箱のフタを少し開けたその瞬間、伯母は鬼の姿になり、あっという間にその腕を奪い逃げ去った。このとき鬼は、屋根から下がった囲炉裏の自在鍵を伝い上り、屋根の煙抜きの天窓から逃げたという。 そのため、この集落ではそれ以降自在鍵は用いず、また煙抜きの天窓をもうけなかったという。また、節分の豆まきの行事では、「鬼は外」の掛け声はかけないということだ。

鬼が逃げる時、川を飛び越えようとして石に手をついた。その時の手形のついた石が、 鬼の手掛け石として今に残ると伝えられる。

酒呑童子や茨木童子の話は、御伽草子に始まり、謡曲や浄瑠璃、歌舞伎などに様々に取り上げられ、全国に広がっている。この地の伝説もそれらからのものだろうが、渡辺一族がいつ頃からかこの地に土着し、一定の武力集団としてあったことは事実のようだ。この地には、平治の乱の折に敗れた源氏の一族の渡辺党が落ち延びて隠れ住んだと伝えられている。

また鬼が「切られた腕を取り返しにくる」という話は、越後の弥彦神社系列の神社等に時に見られ、酒呑童子や茨木童子が越後生まれと伝えられることとかかわりがあるのかもしれない。