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大同2年(807)、蝦夷の反乱が奥羽で起こり、征夷大将軍坂上田村麻呂が津軽に入った。田村麻呂は白神岳の酋長手長足長を討ち取り、岩木山の蝦夷を平定し、弘前の相馬に向かった。

この地の蝦夷の首領は女性で、目と目の間が6寸もあり、身の丈は1丈(3m)もあり、その名は、目六面長(メルクオモナガ)といった。目六面長は、神通力によって気象を操り、神出鬼没で、堅固な山砦のメノコ館に立てこもった。

その神出鬼没の戦いぶりに田村麻呂は苦戦したが、蝦夷の多くは討たれメノコ館を陥落寸前まで追い込んだ。しかし突如激しい風雨が起こり、目六面長は姿を消した。田村麻呂は祈願し、標高588mの棺森という山に潜んでいることを知った。田村麻呂は目六面長の隠れ家を三重に取り囲み攻撃したが、突如雷鳴とともに雪が降り始め、兵は恐怖のため動けなくなり、目六面長はさらに岩木川を下り草むらをかき分け南へ逃げた。田村麻呂は神仏の力を借りて追いつき、自らの手で目六面長を討ち取った。

目六面長はその場に埋葬されたが、その夜、不気味な泣き声が周囲に響き渡り、兵たちは恐れおののいた。田村麻呂は遺体を掘り返し、自分の首にかけていた翡翠の勾玉とともに手厚く葬り直し、四方を石で固め、上に押さえの敷石を何枚も重ねた石堂にその霊を鎮め、目六面長を石戸権現として祀ったという。

青森県には坂上田村麻呂の伝説が多く伝えられる。しかし定説としては、田村麻呂は、延暦20年(801)岩手県の胆沢地方に入り、阿弖流為らの拠点を各個撃破し、胆沢城の造営を始めた。この胆沢城造営中、阿弖流為らは降伏した。この胆沢城造営を最後に、大和朝廷の蝦夷征討は終了し、その後は、蝦夷の慰撫政策により大和への同化を進めた。

この伝説の大同2年(807)には、すでに桓武天皇は没し、京の都は平常天皇の御代となり、薬子の変の混乱期に入りつつあり、蝦夷征討どころではない状況だった。しかし青森に残る田村麻呂伝説は、その広がりから考えて、何らかのモチーフがあったと考えるべきだろう。

この伝説にある、「白神岳の酋長手長足長」「岩木山の蝦夷」「蝦夷の首領目六面長」など、坂上田村麻呂の蝦夷征討の時代観よりはるかに古い時代観のように思える。青森のこれらの伝説のモチーフは、斉明天皇4年(658)から3年間をかけて、日本海側を北へ航海して蝦夷を服属させたとする、安倍比羅夫の蝦夷征討をモチーフとし、それを田村麻呂以降の大和勢力との同化の過程のトラブルがかさねられたものと考える。