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東北地方各所に源義経の伝説があるが、それとは少し異なる形で、義経四天王の一人の、紀州那智の豪族鈴木三郎重家の伝説が散在する。

重家は、義経に従って一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどで軍功を立てて武名を馳せ、壇ノ浦の戦いでは熊野水軍を率いて源氏の勝利に貢献した。平家滅亡後は源頼朝から甲斐国に領地を一所与えられて安泰を得ていた。

東北地方には、この鈴木重家に関わる伝説が各所に伝えられるが、その一部は、義経北行伝説と流れを一にするが、伝説の多くは義経北行伝説とは異質に思える・

宮城県南三陸町には、「小森御前様」という小社があり、大震災の津波で流されたものの、地元の方の尽力により再建された。この地には、以下のような伝説が伝えられる。

鈴木重家は、義経が頼朝と対立して奥州に逃れた際は、腹巻(鎧の一種)だけを持って、文治5年(1189)に奥州に向かった。重家は、妻の「小森御前」を紀州に残してきていた。小森御前は夫が奥州平泉で平穏に暮らしているとの報を聞き、乳母等とともに奥州を目指した。

しかし、この志津川の地に辿り着いたときに、夫重家は、弟の亀井六郎と共に衣川の戦いで討ち死にしたことを聞き、乳母とともに 志津川で自害したという。村人達はこれをあわれみ、その場所に祠を建て、今でも「小森御前様」と呼んで祀っている。

この南三陸町から平泉への道筋にあたる西約十里ほどの「熊野神社」には次のような伝説が伝えられる。

鈴木三郎重家は、紀州熊野で、病気の母親を看病していたため、義経と一緒に平泉へ行くことができなかった。しかし、義経への思いは断ちがたく、病気の母に別れを告げて、単身義経の後をおいかけ、文治4年(1188)この地にたどり着いた。

夕日を浴びた森の上空には、めでたい鳥であると言われている「カササギ」が空一杯に飛んでいた。重家はこれを吉兆と感じ、ここに故郷の氏神である熊野神社を祀り、約300mごとに杉の木を植えた。

この地の重家が植えた杉の木の内の一本が、この熊野神社の境内に残る杉と伝えられる。

重家はその後、平泉の義経のもとに行ったが、翌年の文治5年(1189)、藤原秀衡亡き後、源頼朝の謀により、藤原泰衡により攻められ、義経ともども討ち死にしたと伝えられる。

しかしこの「熊野神社」の地の西方1里ほどの栗原市金成の地には、重家は平泉から逃れ、大原木館を居館としてこの地に住み着いたと伝えられる。

鈴木氏一族はこの地に定住したようだが、詳細は定かではない。戦国期には、この地は葛西氏と大崎氏の勢力争いの接点になったようで、大原木館の館主として鈴木氏の名前が見られる。そのような中で、鎌倉幕府の武将ではない鈴木氏一族がこの地の支配を維持することは難しかっただろう。

この地から南東方向5里の寺池の地は、小野寺氏一族が支配していたようだが、葛西氏が本拠地を寺池に移したことで、小野寺氏は一関方面に支配地を移し、その後、秋田県仙北地方に移ったようだ。恐らくは、葛西氏から小野寺氏同様の圧力を受けていただろう鈴木氏も、氏族の一部を率いて秋田の仙北地方に移ったと考えられる。

秋田県羽後町にある鈴木家住宅は、羽後町の山あいに位置し、秋田県内で現存するものとしては最も古い民家で、17世紀後半の建築と推定され、300年以上も経たものである。平成6年(1994)、国重要文化財に指定されている。

中門造り、茅葺き屋根を残す秋田の伝統的で代表的な民家の形態を残すもので、東北から新潟、会津にかけての日本海側に広く分布する農家の形態で、豪雪地帯のため出入口が中門の先端にある点が太平洋側の曲り家と異なる。

この地では、鈴木家の祖は、紀州から源義経に従った鈴木三郎重家と伝えられ、文治5年(1189)に平泉から落ち延び、この地に土着し帰農したと伝えられる。

鈴木家は、戦国期にはこの地を支配した小野寺氏から田長(たおさ)役を命ぜられ、江戸時代の佐竹氏からも肝煎役を仰せつかり、文政13年(1830)に名字帯刀を許された。鈴木家当主は代々杢之助を襲名し現在に至っている。

羽後町の鈴木家は、東北地方の鈴木姓の総本家としており、東北地方では熊野信仰を広めながら各地に一族が広がったようだ。

この屋敷の主屋の一番奥には「化け物座敷」という部屋があり、この部屋は 昔、この地に辿り着いた落ち武者をかくまった部屋と伝えられ、子供たちは代々「この部屋は絶対にあけるな!!」と云われて現在に至っているという。