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長江氏の祖は、桓武平氏流で、後三年の役に源義家に従い勇名をあげた鎌倉権五郎景政と伝える。景政の孫義景が相模国三浦郡長江に住して、長江太郎を称したことが長江氏の始まりである。

長江義景は、同族の三浦氏とともに源頼朝の挙兵に参加し、鎌倉幕府創業の功臣となった。また、文治5年(1189)、源頼朝が奥州藤原氏を攻めた奥州合戦にも従軍し、その戦功により戦後の論功行賞で奥州桃生郡南方の深谷保を賜った。

長江氏の嫡流は、宝治元年(1247)の宝治合戦で、三浦氏に味方し北条氏に敗れ断絶した。この時期に長江氏の庶流が各地の所領に下向したものと思われる。詳細は不明だが、深谷保に下向した長江氏は、小野館を本拠としてこの地一帯を支配した。

小野館は、梅ケ森館(お館山)、桜ケ森館(笹ケ森山)、松ケ森館(青木山)の三つの城館群からなっており、桜ケ森館を主城として、梅ケ森館、松ケ森館を支城としていたようだ。桜ケ森館は、高さおよそ30m、東西200m、南北300mで 、頂上部の東西80m、南北100m程の平場が本郭であった。

三つの城館を合わせれば広大で、かなり複雑な城館であったようだ。恐らくは一族がそれぞれ別れて居したものと思われる。

この地の近くの石巻には奥州総奉行の葛西氏が大きな勢力を持っていた。長江義員の時代、葛西清重の三男の清員を養嗣子とした。以後、長江氏は葛西氏の与力として、戦国時代の長江月鑑斎に至るまで、深谷庄の領主として400年間にわたって続いた。しかし、その間における長江氏の動向は、神社などに残された板碑や他氏の系図などに記された記述などから知られるばかりで、必ずしも明確ではない。

南北朝期を経て室町時代になると、奥州では大崎氏が探題として権勢を振るった。大崎氏の全盛時代には、伊達・葛西・南部氏らをはじめ、奥州の諸将は大崎氏のもとに参候した。その席次は厳格に決められており、長江氏は伊達・葛西・南部氏らには及ばないものの、相馬・田村・和賀・稗貫氏らと同格の位置を占めていた。

しかし、15世紀中ごろになると、葛西氏と大崎氏は激しく争うようになり、伊達氏が勢力を拡大しつつあった。葛西氏はそのまま大崎氏に当たることの不利を考えて伊達氏と同盟を結び、その中間の敵大崎氏を討つという戦略をとった。この時期、伊達持宗の孫にあたる宗清が葛西氏の家督を継ぎ、長江氏は、長江宗武の時の寛正年間(1460頃)伊達氏の傘下に入った。

しかし15世紀末になると、葛西氏には内乱が続き、長江氏は親伊達派として、葛西宗清側で、反伊達派と戦ったようだ。

ところが、天文11年(1542)、伊達家中で稙宗と嫡子晴宗の対立から「天文の乱」が起こり、南奥州の諸大名を二分する大乱となった。乱は長江氏にも影響をおよぼし、家中は晴宗派と稙宗派に分裂し、乱は十年にわたって続き、晴宗派の勝利に終わった。

このころから、長江氏は勝景(月鑑斎)兄弟が表舞台に登場してくる。勝景の二弟景重は矢本氏を継ぎ、三弟家景は三分一所氏を継いで、深谷保を三分していた。しかし、三兄弟の仲は必ずしも円満ではなく、元亀年間(1570頃)に入ると勝景と矢本景重の間に合戦が起こり景重は討たれて滅亡した。

長江氏は鎌倉時代から桃生郡深谷保を領して、幾多の歴史の荒波を乗り越えて戦国時代に至った。そして、長江氏最後の当主となったのが長江勝景、入道月鑑斎だった。月鑑斎は戦国時代に身をおいて、伊達軍団の師団長的な立場を担う勇将であった。また、早くから仏門に入るなど信仰に篤い人物でもあった。しかし、その一生は大半を戦場で過ごし、葛西・大崎・伊達氏らの強豪に挟まれた小領主としての苦渋を味わい、また弟と争いを起こしてそれを討つなど必ずしも平坦なものではなかった。

伊達政宗が伊達氏の当主となったとき、月鑑斎はすでに六十歳を数える老齢にあり、領内の大塩にある澗洞院で過ごすことが多かったようだ。天正16年(1588)、そのような月鑑斎に対して、政宗から大崎出陣の命令が下され、月鑑斎は長江兵を率いて伊達軍に参陣した。

大崎氏は奥州探題として南北朝期より大崎地方に一大勢力を築いていたが、戦国時代になると内紛が続いて落日の様相を呈していた。そして、大崎氏の内紛に伊達政宗が介入し、ついに大崎の陣となった。政宗は留守政景・泉田安芸の両名を大将に命じ大崎領に兵を進めた。

この大崎の陣には下草城の黒川月舟斎が、大崎方として加わっていた。黒川氏は大崎市からの別れだったが、大崎氏が伊達氏に組み込まれていく過程で、長江氏と同様伊達氏に組み込まれており、伊達勢の留守政景が黒川月舟斎のむすめむことなっていた。しかし大崎の陣では、黒川氏は大崎方に、長江氏は伊達方となった。

伊達軍の装備はいずれも最新式で、兵の訓練もよく行き届いていた。大崎方は、中新田城を主城として、桑折城、師山城、そして下新田城に兵を入れて伊達軍の進撃を待ち受けていた。

伊達軍の先陣は、中新田城を目指して黒川月舟斎こもる桑折城・師山城の線を越えたが、大崎方からの攻撃はなく、雪の大崎原野を怒濤のように進撃し、中新田城への攻撃を開始した。大崎勢は伊達軍の猛攻にさらされながらも、間もなく大雪が来るということを確信していた。

そしてついに大崎地方に大雪が降った。2月2日、泉田重光率いる伊達軍先陣は、身動きが取れなくなり、撤退を余儀なくされた。留守政景率いる伊達軍後陣は泉田軍救援に向かったが。桑折城の黒川月舟斎は、留守勢の後方から襲いかかった。挟み撃ちにされた伊達勢は潰走し、空城の新沼城へと撤収したが、大崎勢に城を包囲されてしまった。

兵糧も十分ではない中、新沼城に閉じ込められた留守政景は、2月23日、舅の黒川月舟斎による斡旋を受けて、泉田重光・長江月鑑斎を人質として提出する代わりに城の囲みを解くことを条件に和議を結び、29日に新沼城を出て敗残兵を収容しながら後退し、千石城に戻った。

しかし、大崎氏が伊達氏に勝利したとはいえ、伊達氏の正規軍ではなく、伊達氏のつぎの攻撃を退けるだけの力はすでに大崎氏にはなかった。大崎氏とは近い、最上義光の妹で、政宗の母にあたる保春院の仲介により、伊達氏と大崎・黒川・最上三氏との間に和議が成立した。

その後、泉田安芸と長江月鑑斎らは、囚われの身となった。この両名に対して、最上義光は伊達政宗への離反を勧めた。月鑑斎はこれを容れたようで、深谷への帰陣を許された。残された虜将たちは、月鑑斎が解放されたのが飲み込めなかったが、その後、泉田安芸も離反の誘いを受けたことで、月鑑斎の開放が最上の勧めをいれたためであることが疑われた。

長江月鑑斎と黒川月舟斎は、ともに伊達氏のいわば軍団長として、その名将ぶりを発揮していたが、結果として伊達氏に離反することになった。月鑑斎と月舟斎はすでに老将でありそれぞれの家と家臣のため、大崎氏や伊達氏との関係を築いてきた。しかし両者はともに、孫ほども年の違う伊達政宗のこの冬場の大崎攻めには納得していなかったのかもしれない。

しかし、その後も長江月鑑斎は深谷領主として存続し、政宗の葦名氏との戦いの「摺上原の合戦」には鉄砲隊を援軍に送ったりしていた。天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原の陣の後の「奥州仕置」により大崎・葛西氏らは没落の運命となった。その後、政宗は仕置後の大崎・葛西一揆を制圧し、居城を米沢から旧大崎領で深谷とも近い岩出山へと移した。

岩出山城に入った政宗は諸将の祝いを受けたが、そのなかに長江月鑑斎・黒川月舟斎らの姿はなかった。それに気付いた政宗は、怒りを新たにすると月鑑斎・月舟斎を捕らえて幽閉した。

それは、月鑑斎・月舟斎ともに、鎌倉以来の長い年月を葛西氏と大崎氏とのはさまで生き抜いてきた。ものが、奥州仕置きでは南奥の盟主的立場だった伊達政宗は、結局は仕置き軍の先頭に立ち一揆勢をなで斬りにし、あまつさえ生き残った大崎氏と葛西氏の物頭たちをだまし討ちで根絶やしにした。月鑑斎・月舟斎にとっては、それを「戦国の習い」と受け入れることはできなかったのだろう。

その後、黒川月舟斎は、娘婿の留守政景の助命嘆願によって一命を助けられたが、月鑑斎は秋保氏に預けられ、政宗の命を受けた秋保氏によって殺害された。反骨を押し通しての死であった。ここに、鎌倉時代以来深谷を領した領主としての長江氏は滅亡した。

月鑑斎の弟で、馬術の名人として知られていた家景は、政宗に忠誠を誓い許され、子孫は伊達氏の家臣として続いた。