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国道48号線を、仙台から山形方面に向かい、作並に入ると、一際目立つ岩山が目に入ってくる。この山が鎌倉山で、標高520メートル、奥羽山脈の東の山地帯になる。

鎌倉山は孤立して盛り上がり、山頂は丸く、山腹の傾斜は急である。特に南面は安山岩からなる約100mの絶壁になっている。 国道48号は、昔の関山街道、作並街道で、古くからこの道を往来する人にとって目立つ山であった。

この鎌倉山には、以下のような伝説が伝えられる。後三年の役の折に、源義家に従った相模の武将鎌倉権五郎景政は、鎌倉山の麓に陣をしいた。これに対し、賊将鳥海弥三郎が鎌倉山に攻めかかり、景政は右の目を射られたがこれに屈せず、逆に矢を放ち敵を撃退した。

帰陣した鎌倉景政のもとに一族の三浦為継が駆け寄り、刺さった矢を抜くため景政の顔に足をかけて両手で抜こうとした。景政は怒り「射抜かれて死ぬのは本望だが、土足で顔を踏まれるのは恥辱じゃ、汝を斬って自分も死ぬ、」と太刀を抜き、為継に斬りかかったという。為継は謝り、丁重に矢を抜いたと伝えられる。

また後三年の役の主戦場の金沢柵の上り口には、景政功名塚がある。この塚の位置は、小さいながら山城の様相を備えており、出城的な役割を担っていた地のようにも思われ、景政らが金沢柵を攻めるときに激戦の地であったろうことは容易に推測できる。景政は先陣としてこの地を攻めたものと思われる。

景政は、義家の命により、この地に敵の戦死者を手厚く葬り、供養の塚を築き、塚の上に杉を植えたと云う。

またこの地のふもとを流れる厨川にも鎌倉山とほぼ同様の伝説が伝えられる。景政はこの地の戦いで、敵に右目を射られてしまい、その敵は逆に射殺したものの、激痛でこの場を動けなくなってしまったという。

同僚の為継が、その矢を抜こうと景政の額に足をかけたところ、景政は刀を抜き「生きながら面を踏まれるのは我慢がならん」と、為継を下から突こうとした。為継はその無礼を詫びて、改めて膝を屈してその矢を抜いたという。

景政は川の清水で傷を洗い、その後、この厨川では、右目の見えない片目のカジカが見られるようになったと伝えられる。

この右目を射られながらも奮闘した逸話の原型は「奥州後三年記」に残されており、後年歌舞伎で取り上げられ、各地に広がったものと考えられ、山内一豊が顔に矢を受けた際の逸話にも、そのまま使われている。

景政は、桓武平氏の流れをくみ、父の代から相模国鎌倉を領して鎌倉氏を称した。16歳の頃、永保3年〈1083〉~ 寛治元年〈1087〉の後三年の役に、源義家に従い従軍した。景政は、これらの功により、桃生郡深谷(現在の東松島市)に領地を賜り、その後子孫が下向し、小野に館を築き、この地を支配した。

そのようなこともあり、小野の地の周辺には、景政に関わる伝説がいくつか伝えられる。

松山の羽黒神社は、鎌倉権五郎景政が、寛治②年(1088)、源義家に従い、後三年の役の平定の際に、この地に立ち寄り、羽黒山中央に壇を築き、杉の木一本を植え、はるか出羽三山を拝し戦勝を祈願したという。その祈願が成就し、帰途再びこの地に立ち寄り、一宇を建てて、羽黒大権現の分霊を勧請したと伝えられる。

景政手植えの杉は、その後権五郎杉と呼ばれ、成長し近隣第一の大木となり、安永2年(1773)には、その傍らに碑が建てられ由緒が記された。しかし、樹齢700余年の歳月を経て、寛政10年(1798)の大風により倒れ、現在根株の一部が社殿に保存されている。

また栗原市瀬峰には「力石」の伝説が伝えられる。源義家勢が後三年の役の際にこの地で休憩したときに二つの大きな石があり、だれいうともなく、この石で力試しをすることになった。景政が名乗り出て、二つの大きな石のうち一つを、谷底に投げ込み喝采を受けたという。味方を力づけたため、残ったもう一つの石は「力石」と名付けられ、その後、奥州街道の道しるべになったという。