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石巻葛西氏の葛西清貞が死去した時期には、南朝方の衰退は著しく、この時期すでに北朝方にあった寺池葛西氏に総領権は移ったようだ。

葛西高清の孫の葛西満信は、「母は南部氏。陸奥権守。天性弓馬に達し、武略に長じ、奥州第一の名将」と記されている。姉が大崎探題詮持に嫁し、両家の提携が実現したことで家運興隆の機運に巡りあわせた。

南北朝が合一すると、北朝方同士での勢力争いが起き、応永7年(1400)、栗原郡三迫において、宇都宮氏広が謀叛起こし、大崎持詮、葛西満信、石橋棟義らに攻められて敗れた。これにより三迫は葛西氏家臣富沢氏に配分され、葛西氏はその版図を拡大した。

しかし、その結果、葛西氏と大崎氏は領界を接するようになり、寛正6年(1465)には、葛西氏家臣の富沢河内守が大崎氏と衝突するなど、それが勢力争いに発展し、しばしば干戈を交えるに至った。

また、このころ葛西氏の本拠城は保呂羽城だったと思われ、この地は、葛西・大崎両氏の紛争の接点に近く、葛西氏は周囲に厳重に城を築き、家臣らを配した。保呂羽城は、現在は浄水場がある草飼山(くさげやま)の中腹にある。標高104m、東西1km、南北2kmの広大な山城である。本郭、二の郭、土塁、空堀、腰郭などの遺構が残っている。

栗原郡では、葛西氏と大崎氏は毎年のように戦いを展開した。葛西氏はそのまま大崎氏に当たることの不利を考えて伊達氏と同盟を結び、その中間の敵大崎氏を討つという戦略をとった。この戦略は、葛西氏の最後の当主である晴信の代まで堅持された。

寺池葛西氏が総領権を持っていたが、石巻の満重(政信)が力を持ち始め、寺池の幼い当主尚信が死去するとそのあとは満重(政信)が継ぎ、石巻は伊達氏から宗清を養子として迎え、石巻葛西氏の当主とした。しかしこれらを不満とする者も多かったようで、文明17年(1485)、葛西氏一族の江刺氏などと内訌を生じさせることとなった。

なかでも、明応7年’(1498)から翌年にかけて、奥州探題大崎氏の内紛が葛西領内にも波及し、この争乱は、葛西領全域におよぶ一大争乱となった。伊達成宗の取りなしで一応の解決を見せたが、葛西太守に対する反抗や、家臣間の対立などが収まったわけではなく、葛西氏は家臣の統制や領内の支配に苦しむことになる。大崎氏と葛西氏との対立も、この後も天正時代にいたるまで続くことになる。

葛西氏家臣の所領は、郷(邑)単位となっていて、地頭である家臣は邑主などと呼ばれていた。室町時代になると采邑のなかに采地が分けられ、新入りの地頭や合戦における行賞などで分かち与えられた。当然、采地となる場所は、本来の邑主の手の及ばないところであったと思われるが、邑主としてはみずからの所領を侵略されたように思われ、至るところで所領争いが引き起こされ、それが葛西領争乱の複雑な要因ともなっていた。

天文2年(1533)には、気仙沼赤岩城主の熊谷氏が叛逆を企てた。太守葛西稙信はただちに兵を発して赤岩城を討伐した。熊谷氏は、かつては気仙沼の派遣を争い、貞治2年(1363)に敗れ葛西氏の支配下に入っていた。葛西稙信には、力をつけつつあった熊谷氏の威勢を削ごうとする策謀があったとも考えられる。

天文2年(1533)、稙信(晴重)が死去し、その跡は早世した嫡子守信の養子の伊達稙宗の子晴清が、守信弟高信の後見を得てその跡を継いだ。しかしこれは、反伊達派の反発を招き、葛西氏家臣らが反旗を翻した。これに対して伊達稙宗は、会津の葦名盛舜の支援を得て、葛西領内に侵攻し佐沼および新田方面で激戦が行われ、「討死、腹切る者数知らず」と伝えられるように葛西軍が惨敗した。

ところが天文11年(1542)、伊達家中では伊達稙宗と嫡男晴宗とが争う「天文の乱」が起こり、葛西晴清は、実父の稙宗側につき、後見の高信(晴胤)は晴宗方へ付き、互いに抗争を繰り返した。しかし、晴清は乱の最中の天文16年に二十代で病死してしまった。

葛西氏の家督は高信が相続し、将軍義晴から偏諱を受けて晴胤を名乗った。この時期の葛西氏は大きな混乱の中にあったようで、天文の乱後、勝利した伊達晴宗が稙宗派に属した晴清を粛正したのだともされ、また 晴胤は伊達稙宗の子とするものまである。

その後、晴胤没後、跡を継いだ嫡男の親信は短命で、その跡は弟の晴信が継いだ。以後、この晴信が永禄・元亀・天正と三十年間にわたって葛西領内の争乱の鎮圧と、大崎・伊達・南部氏らの諸大名との合戦に明け暮れ、文字どおり東奔西走することになる。

永禄7年(1564)には本吉の馬籠氏、天正2年(1574)には、本吉の本吉氏が乱を起こし、天正7年(1579)には、岩ヶ崎の富沢氏が乱を起したが、いずれも太守晴信により鎮圧された。天正16年(1589)には、本吉氏と気仙郡高田の浜田氏が衝突し、浜田氏は近隣を攻めながら勢力を拡大していった。これに対して晴信は、領内の諸勢に出動をうながし、みずから気仙郡に出陣し、浜田勢を押し返し、結局、太守の討伐の前に鎮静化していった。

まさに、玉突き状態のように領内に争乱が続いた。晴信は決して凡庸な当主ではなかったが、領内の一族・巨臣の反乱に悩まされ、強力な大名領国制を確立することができなかった。これは、葛西氏と戦った大崎氏にも共通するところだが、旧い体質を改善できないまま豊臣秀吉の奥州仕置きを迎えることになった。

天正18年(1590)春、葛西氏も豊臣秀吉の小田原陣に参候すべきか否かの決断を迫られることになるが、結果として、中央政権へ通ずる先進的外交を欠き、大局を見切れなかった判断の甘さから参陣することはなかった。その結果、秀吉の「奥州仕置」によって所領没収の憂き目に合うことになった。

南奥州は、この時期、ほぼ伊達氏の影響下にあり、葛西氏も大崎氏も、上方の情報を伊達氏という一つのフィルターを通して見ていたようで、それが道を誤った一因かもしれない。いづれにしろ、小田原に参陣しなかった葛西氏と大崎氏は、所領を没収された。

小田原を制圧した豊臣秀吉は、伊達政宗を案内役として「仕置軍」を奥州に派遣した。これに対して葛西方は桃生郡深谷の神取山に1,700ほどが入り、仕置軍に抗したが、多勢に無勢敗れた。葛西晴信は本城に戻り蒲生・木村軍に降服した。晴信は、伊達政宗を通して家名再興に希望をつないだようだ。しかし、天正19年(1591)におこった葛西大崎一揆の発生のため、葛西氏再興は挫折した。

葛西・大崎の旧臣らは、仕置き軍の暴政に反抗し一揆を起こし、佐沼城に籠城した。伊達政宗は、この一揆を扇動している疑いを駆けられ、一揆の鎮圧を命じられた。このため、伊達軍団総動員による一揆討伐が行われることになる。春には大崎領の宮崎城が攻略され、続いて佐沼城が包囲され、「撫で斬り」で2千5百余人が討ちとられ落城した。さらに、同年八月には桃生郡深谷で、多数の一揆物頭衆がだまし討ちで全滅し、伊達氏の相次ぐ術策と蹂躙の中で一揆勢は息の根を止められた。

家名再興の道も閉ざされた葛西晴信は、文禄3年(1594)ごろ、加賀の前田利家にお預けとなり、娘二人を連れて加賀に移住し、それから三年後の慶長2年(1597)、失意のうちに死去したという。享年六十四歳であったという。

葛西氏の時代が終焉すると、帰農した家臣らは、門前にサイカチの木を植え、同志の目印にしたという。「カサイカツ」を「サイカチ」になぞらえ合言葉として再起を誓ったものといわれる。「サイカチ」伝説は、戦国の非情に翻弄された葛西家遺臣の声なき怨みの声であったといえよう。