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1988年にはリクルート事件が起き、1989年7月の参議院議員選挙では、自民党は参議院単独過半数ワレという、結党以来の惨敗を喫し、その後政権は、自社さ連立や、自自公連立などと不安定政権となり、1994年には細川政権が誕生し、自由民主党は下野することになった。これ以降は、政党の離合集散が繰り返され、政権は不安定で、短命政権が続いた。政権内部には左翼が混じり、拉致問題は真剣に議論されることもなく、国会で取り上げられることもなく、警察の捜査の進捗状況や事件の真相も明らかにならないまま一般には半ば忘れられた問題となっていった。

1997年初頭、元北朝鮮工作員で脱北者のアンミョンジンが、拉致事件の詳細を証言し、2月、新進党の西村眞悟議員が、同年2月、大韓航空機爆破事件や、ブンセイコウ事件、金賢姫の著書などに言及しながら、横田めぐみ、久米ユタカ、田口八重子らの実名を挙げ、彼らが北朝鮮に拉致されていると明確に指摘した質疑を行った。大手マスコミもこれを報道し、当時13歳の中学生少女が拉致されていたという事実の指摘は、国民に衝撃を与え、遅ればせながら、北朝鮮による拉致事件が広く国民に認識される契機となった。3月には「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会、」が結成され、救出活動を始め、また国会内では4月、自由民主党衆議院議員の中山正暉が会長となり、超党派の議員による「北朝鮮、拉致疑惑日本人救済、議員連盟、」が設立された。メディアも取り上げ始め、国民の関心も徐々に高まっていった。

会長の中山は「拉致問題が解決するまでは北朝鮮に対して食糧支援を行わない、」と発言するなど強硬な姿勢を見せ、議連も一致してその原則で臨んでいた。しかし中山は1997年11月に平壌を訪問して以降、急遽各方面に拉致事件否定説を発表するなど不可解な行動を見せ始めた。1998年には、拉致議連会長のまま日朝友好議員連盟の会長に就任し、「拉致問題は幽霊のように実体のないもの、」と日本人拉致事件そのものを否定し、「まず北朝鮮との国交正常化を行った後に拉致問題の解決を行うべき、」など、拉致議連の会長自らが問題そのものを否定するようになった。この中山の言動は、議員連盟のみならず、政界内や多くの国民から強い批判を浴び、その豹変は、北朝鮮による、ハニートラップによるものと、噂されている。中山は拉致議連、日朝友好議連の両会長を辞任し、石破茂を会長として新たに拉致議連が発足し、当時経済産業大臣だった平沼赳夫や内閣官房副長官の安倍晋三らが賛同、第1次小泉内閣もこれを支持するところとなった。

2000年4月には、石原慎太郎東京都知事は拉致事件に関して「不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している、」と述べ、また2001年9月には「北朝鮮が日本人150人を拉致した、」との趣旨の発言を行った。これに対し朝鮮総連が「事実無根で悪意に満ちた暴言。発言の根底には、朝鮮民族に対する深い蔑視と差別の思想がある、」と反論した。また東大名誉教授で市民運動家の和田春樹氏は「横田めぐみさん拉致の情報は、その内容も、発表のされ方も多くの疑問を生むものである。以上の検討からして、横田めぐみさんが拉致されたと断定するだけの根拠は存在しないことが明らかである、」とした。

また弁護士の土屋公献は、「拉致問題は存在せず、国交交渉を有利に進めたい日本側の詭弁である、」、「日本政府は謝罪と賠償の要求に応じるどころか、政府間交渉で疑惑に過ぎない行方不明者問題や『ミサイル』問題を持ち出して朝鮮側の正当な主張をかわそうとしている。破廉恥な行動と言わざるを得ない、」と、講演で繰り返し主張していた。

旧社会党や社民党、民主党などの左翼系勢力や在日朝鮮人、韓国人などは、この時期になっても、北朝鮮による日本人拉致問題は、右翼や政府による捏造と信じて疑わなかった者が多く、一部では朝鮮人差別を原因とした捏造であると考える者も多かった。社会民主党の月刊誌、月刊社会民主1997年7月号では、拉致事件をデッチ上げとした上で、拉致疑惑事件は、日本政府に北朝鮮への食糧支援をさせないことを狙いとして、最近になって考え出され発表された事件なのである、としている。

2000年、田中真紀子等コメ議員たちは、北朝鮮への50万トン、1100億円相当もの国内米の支援を決定した。なお、このとき畑恵参議院議員は、救う会の活動を「暴徒と化している集団、」と呼んでいたという。また、野党も、社民党党首土井たか子は「食糧援助と拉致疑惑は切り離すべき、」と主張し、民主党の鳩山由紀夫も、同様の演説をしている。また2001年9月の、アメリカ同時多発テロ事件の際に、福田康夫内閣官房長官は、「拉致はテロではない、」と、拉致事件への消極的な答弁を行っている。

2002年9月、内閣総理大臣小泉純一郎らが訪朝し、日朝首脳会談を行った際に、当時の北朝鮮の最高指導者である金正日は、北朝鮮の一部の特殊機関の者たちが、「現地請負業者、」(在日朝鮮人)と共謀して、日本人を拉致した事実を認め、口頭で謝罪した。これにより、5人の拉致被害者が日本に帰国し、拉致事件は北朝鮮が起こした主権侵害であることが明らかになった。金正日は、シンガンスら、拉致の実行犯が現在でも北朝鮮国内で英雄扱いされているにもかかわらず、すでに拉致実行組織は解体、拉致を指揮した者は処分したと伝え、この会談により、日本人拉致事件は解決したと主張している。

北朝鮮による拉致が公になった後も、日本政府の動きは鈍かった。外務省の嘆願に訪れても「誠意をもって取り組む、」と単なる言葉のみだけにすぎなかった。また法務省の人権擁護局に至っては「仕事の範囲外」と、まともに相手にしてくれなかった。その反面、この時期の日本国政府は、北朝鮮への食糧支援の動きは積極的だった。

この小泉純一郎と金正日による日朝首脳会談で、金正日が、一連の拉致事案や工作船事案を認めて謝罪した事で、マスメディアは連日、日本人拉致問題を報道して北朝鮮を激しく糾弾し、国民の多くは激怒し、対北朝鮮制裁を強く訴えるようになった。日本人拉致問題を「でっちあげ」と言い続けてきた朝鮮総連は本国に梯子を外された格好となり、在日朝鮮人のショックは大きく、詩人の金時鐘は「植民地統治の強いられた被虐の正当性も、これで吹っ飛んだ気にすらなった」と嘆いた。北朝鮮に対して友好的な立場を採り、拉致事件を『捏造』『デッチ上げ』と主張していた人々は、事実認識の誤りを撤回して、謝罪を迫られる状況に追い込まれた。

その後、北朝鮮側は「拉致したのは13人だけ、」であり、8人は死亡し、生存者5人を返したので解決済みとしている。しかし日本側は「問題解決の取り決めなどしていない、」と主張し、また、北朝鮮から死亡の証拠として出された遺骨などは、日本でのDNAなどの鑑定の結果、すべて捏造であるとしている。また、韓国への脱北者の証言などから、北朝鮮が死亡したとする時期や経過などに、さまざまな矛盾があった。

これに対し日本は、2004年、特定船舶入港禁止法、改正外為法などを成立させ制裁を発動した。2008年6月、北京で開かれた日朝公式実務者協議で、北朝鮮が日本人拉致問題の「再調査、」を表明し、北朝鮮の対応を踏まえ、弾道ミサイル発射や核実験を受けて実施してきた制裁措置の「日本から人道支援物資を運ぶ場合に限り、北船籍の入港を認める、」など、一部見直す旨を発表した。しかし再調査の約束も守られない内に、6者協議は破綻した。

現在北朝鮮は、拉致問題は解決済みとしながらも、「日本が、解決済みの拉致問題を意図的に歪曲し誇張するのは、日本軍が、過去に朝鮮人民に働いた犯罪を、覆い隠す為の政略的目的に悪用する為だ、」と主張している。一方で「日本が誠意を示せば、何人かは帰す、」とも主張している。日本国内にも、立憲民主党の議員に返り咲いた辻元清美などは、北朝鮮の言い分そのものの「日本の過去の犯罪の補償を先に話し合うべきだ」との北朝鮮の主張をなぞり、かつての旧民主党政権の菅直人元総理などは、拉致実行犯のシンガンスの釈放に手を貸し、あまつさえ、拉致に関与したよど号ハイジャック犯人の家族の政治団体に、鳩山元総理とともに多額の献金を行っていたことが明らかになっている。

日本政府は「拉致問題の解決なしに国交正常化はありえない」との方針により、解決を目指して交渉を続け、今に至っている。本来であれば、日本は主権国家として、国土と国民を守らなければならないはずで、主権を侵犯した国家に対しては断固とした対応をしなければならなかったのだが、北朝鮮の「公正と信義、」を信じ、コメ支援や経済支援での「太陽政策、」で解決しようとし、結果的に大きな人権問題を放置してきてしまった。北朝鮮は、軍事独裁の秘密警察国家で、「公正と信義、」のないならず者国家であるという現実を見て見ぬふりをしていたのだろう。

残念なことに、現在の北朝鮮とはどのような約束事をしても守られることはないだろう。それは、これまでの経緯を考えても明らかだ。「公正と信義、」のない国家相手には太陽政策のような外交は、ことを複雑にするだけだろう。約束を守らなければ制裁を課し、場合によっては、国際社会と連携し、北朝鮮の体制変換を行うべきだ。日本人拉致事件は、残念ながら、北朝鮮の体制が変わらない限り解決することはないかもしれない。