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南北朝期、石巻の葛西氏は、北畠顕家を助け足利尊氏を京都から追討もした有力な南朝の雄である。そのためか、石巻周辺には後醍醐天皇の皇子の、護良親王の伝説が散在する。

宮城県東松島市の宮戸島には、護良親王が逃れてきたとする伝説が伝えられる。

宮戸島の「大浜」は、もとは「王浜」であり、「月浜」は親王が着いた「着浜」であり、「室浜」は、親王が仮住まいを設けしばし留まったことからきていると伝えられる。

また、大浜から岬の先端の番ヶ森に向かう途中には、むろの木の古木があり、宮戸に上陸した護良親王が、この地で筆に使われたむろの木の枝を土中にさしたところ、根がつき現在のむろの木になったと伝えられ、「お筆むろ」と呼ばれている。

またこの「お筆むろ」のすぐ近くには、護良親王が使ったという古井戸があり、それは近年まで使われていたという。

これらの話はどれも他愛無いもので、後世の創作だとするのは簡単ではあるが、この地の東5里ほどの石巻を中心とした地を領していた葛西氏は、有力な南朝方勢力であり、石巻市には護良親王の御陵墓と伝えられるものも存在し、細部は別にして、護良親王が宮戸島に漂着したのは事実と考えられる。

護良親王の御陵墓と伝えられる塚は、石巻市の一皇子宮にある。

定説では護良親王は建武2年(1335)足利尊氏の弟の足利直義の命で、殺害されたとされるが、しかし、神奈川県相模原には、秘かに奥州に逃れたという伝承も残っており、また石巻にも、この地に隠れ住んだとの伝承が残っている。

護良親王は別名大塔の宮とも呼ばれている後醍醐天皇第三皇子である。叡山を味方にするため天台座主となったが、お経はそっちのけで武芸の修練に励んだという。

元弘元年(1331)、後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕の元弘の変を起こすと、護良親王は還俗して参戦し、十津川、吉野、高野山などを転々として2年にわたり幕府軍と戦い続け、京都の六波羅探題を滅ぼした。幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良親王は征夷大将軍、兵部卿に任じられた。

建武政権においては尊氏らを警戒し、北畠親房とともに、東北地方支配を目的に、義良親王(後の後村上天皇)を長とし、親房の子の北畠顕家を陸奥守に任じて補佐させる形の陸奥将軍府設置を進言して実現させる。

しかし、足利尊氏のほか、父の後醍醐天皇とは折り合いが悪く、その寵姫で義良親王を帝にと考える阿野廉子の讒言により、征夷大将軍を解任され、皇位簒奪を企てたとして、建武2年(1334)、後醍醐天皇の命により捕らえられ、足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られ足利尊氏の弟足利直義の監視下に置かれた。

建武2年(1335)、信濃で北条時行を奉じた諏訪頼重らによる中先代の乱が起き、足利軍は関東各地で北条軍に敗れた。このとき、護良親王は鎌倉に幽閉されていたが、北条時行軍が勢力を拡大し、奉じられる事を警戒した足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害された。享年28歳。

この護良親王を祀っているのが一皇子神社で、拝殿の背後には、宮の陵墓と伝わる古墳があり、付近には御所入、御所浦、御隠里、吉野町等の地名も残されている。