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農地は荒れ、山も荒れ果て、そしてついに大飢饉が全国を襲った。当初はご飯をお粥にすることで何とか凌いでいたが、お粥にするほどの米も底を尽きると、人々は籾殻も稲の藁もとうもろこしの茎さ、樹や草の根を掘り出して食べるようになった。ついには餓死者が続出するようになり、埋葬しきれない遺体の多くは雑木林に捨てられた。遺体が捨てられるとすぐさま尻や太ももの部分が誰かによって切り取られていった。

飢えた人々は、自分の子供を他の家庭の同じ年頃の子供と交換するようになった。これは自分の子供を食すことはできないので、他人の家庭の子供と交換して食すためだった。こうしてなんとか1週間ほど凌ぐことができたという。

大躍進政策は、チベットでも行われた。チベットでは中国政府による抑圧政策が取られていたこともあり、状況はさらにひどかった。餓死者が続出し、飢饉で死亡した数は1,500万人から3,000万人と推計されている。パンチェン・ラマの故郷である青海省では、人口の45%に当たる90万人が死亡したとされ、地域によっては、民衆が全滅してしまった所もあり、死亡率は恐ろしく高い。これは、チベットにおけるジェノサイド(民族絶滅を意図する大虐殺)であるともいわれている。

1959年の7月から8月にかけて、廬山会議において、国防大臣彭徳懐元帥が大躍進政策の問題点を諫めた。しかし毛沢東は、彭徳懐ら4人を「彭徳懐反党集団」として激しく非難し、彼らを失脚に追い込んだ。毛沢東は自信を持って大躍進に誤りなど全くないと主張し、彭徳懐反党集団との闘争を20年でも50年でも続けなければならないとした。毛沢東は自らの正当性を主張するため、さらなる鉄鋼大増産政策の貫徹を全国に命令し、一層無理なノルマが課されるようになった。ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告し、その報告を受け取った毛沢東は実態を把握しないまま更なる増産を命令するという悪循環に陥っていった。

結局、大躍進政策は数千万人の餓死者を出す、惨憺たる大失敗に終わった。1959年、毛沢東は政策失敗を認めて国家主席を辞任し、実質的な権力を失う。あるデータでは大躍進政策による餓死者数は2500万人から6000万人に及んだという。
驚くべきことに、数千万規模の餓死者が発生していたにも拘らず、中共政府は3年連続で穀物を大量に輸出していた。1958年に266万トン、1959年に419万トン、1960年は265万トンである。1960年には、中国共産党も大飢饉の発生を把握していたはずだ。この数千万人の「人民虐殺」は、明らかに毛沢東ならびに中国共産党による人災であるが、毛沢東は今も「建国の父」であり、一党独裁のもとで、中国共産党が責任をとることもない。

またこの大躍進政策は、アフリカ諸国にも多大の影響を与え、大きな災厄をもたらした。ソマリア、モザンビーク、アンゴラ、エチオピアは、いずれも大躍進政策を模倣する農業政策を推進し、自国の農業を事実上崩壊させ、ソマリアなどは今日まで続く貧困と混乱、国土の荒廃をもたらす原因となっている。

1962年に開かれた中国共産党拡大工作会議で、毛沢東は大躍進運動の失敗に対する自己批判を余儀なくされた。これ以降、劉少奇と鄧小平が中国の経済再建へ向けて舵をとるようになる。中華人民共和国建国から13年、すでに中国人民は人類史上経験したことのない悲劇を味わってきた。過去に中国が経験した列強による侵略も、抗日戦争をもはるかに上回る悲惨さであった。
しかしこれで悲劇は終わらず、その後の悲劇の序章でしかなかった。このような人類史上他の国では例がない悲劇を経験しながら、さらに悲惨でさらに長期間に及ぶ悲劇が待っていた。毛沢東は復権を企図し、機会を虎視眈々と窺っていたのである。

中国共産党の政策の前では、人の命は羽毛よりも軽いようだ。それでいて「南京大虐殺」とかを言っている。それはロシア革命以来の共産党社会の伝統なのかも知れない。レーニンやスターリンの大虐殺から崩壊まで、旧ソ連でも同様のことがあったのかもしれない。

しかし、中国の悲劇はこれで終わったわけではなかった。その後、さらに文化大革命へとつながり、中国はさらなる地獄を見ることになる。そしてその流れは、天安門事件やチベット問題、ウイグルや香港、台湾問題に接続しているのだと思う。また中国で起きた地獄の光景は、現在は表面からは隠れているようだが、法輪功問題や臓器売買、人身売買、人間牧場などにつながっているのだろう。