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1957年の反右派闘争をきっかけに毛沢東の権力は絶対的なものとなり、ほとんど異論を唱えられない雰囲気が醸成されていた。ソ連では、1957年11月、フルシチョフは、ソ連が鉄鋼・石油・セメントなどの工業生産、および農業生産において、15年以内にアメリカを追い越せると宣言し、中国の毛沢東もまた、1958年の第二次五ヵ年計画において、世界第2位の経済大国だったイギリスを3年で追い越すという、壮大な計画を立案した。この計画性のない毛沢東の気まぐれの政策が悲劇の始まりとなった。

翌年、中共政府は鉄鋼生産量年間2億7千万トンという前年比2600%(26倍)増の生産目標を発表した。また農民を鉄鋼生産に専念させるため、1958年は前年比2倍の穀物生産高年間5億トンという目標を掲げて邁進することになった。

穀物生産高倍増のため、1958年2月に中共政府は蝿、蚊、鼠、雀を駆除することを目的とした四害駆除運動を開始した。特に農作物を食い荒らす雀に対する徹底的な捕獲作戦が実施され、北京市だけでも300万人が動員され、3日間で40万羽のスズメを駆除した。もちろん雀は農作物を食うだけでなく、害虫も食べるのであり、生態系バランスを無視した政策により、蝿、蚊、いなご、ウンカなどの害虫が大量発生し、農業生産に大打撃をもたらすこととなった。後にスズメは南京虫に変更され、ソ連から大量のスズメが送られたといわれている。

さらに、誤解に基づく、同じ種であれば互いの成長を阻害しないという極度の密植、深く埋めるほど根が発達するという2メートル以上の深植えなど、伝統的な農法も科学的知識に基づく近代農法もまったく無視した政策が実行に移され、農業などにさらに大きなダメージを与えることとなった。

この大増産キャンペーンで、生産量を増大させた地区がより「革命的」であり、その地区の共産党幹部がより有能で、昇進が約束される風潮が蔓延した。反対にノルマの未達成は生命の危険に関わる大問題だった。各地の共産党幹部は「党の指導で、前年より飛躍的に生産を拡大させた」と生産量を過剰申告、地区中の作物を一区画の畑に集めて写真を撮り虚偽宣伝する事例が中国全土で横行した。中央政府は、地方から報告された虚偽の生産量を前提に、輸出などに回す穀物の供出を地方政府に命じた。
地方幹部は生産量を過剰申告したとも言えず、一度『増えた』生産量を減らすわけにもいかず、辻褄あわせに農村から食糧を洗いざらい徴発し、飢餓の最悪期にも中国はソ連からの借款の返済に農作物を輸出していた。

1959年を迎えると、毛沢東はこの1年間は農業生産はほどほどにし、全農民を動員して鉄鋼大生産に全力を挙げるよう命じた。しかし農民を総動員し、金属工学の専門家もそれに適した設備もなく、素人に良質な鋼鉄が作れるはずもなかった。原始的な溶鉱炉である土法炉を用いた製鉄が、全国の都市、農村いたるところで展開された。
土法炉を建設するための耐火煉瓦の供給は皆無に等しく、煉瓦製の塔、寺院、城壁など、中国全土で多数の歴史的建造物が、土法炉建設用の煉瓦採取の目的で解体破壊された。

土法炉の燃料には当時一般的だった木炭を使用することが多く、木炭を生産する目的で、中国全土で樹木の大規模な伐採が行われた。伐採は事実上、無差別、無分別であり、果樹園の果樹、園芸用の灌木も例外ではなかった。石炭が入手可能な都市部でも、効率の良いコークス炉ではなく、石炭を地上で直接燃やしてコークスを生産する方法を採用したことで、大量の石炭を浪費することになった。

原材料の鉄鉱石は、石炭同様産地が限られ、かつ供給不足の状態で、多くの地方では砂鉄の入手すら困難な状況だった。このため、都市部では鉄製の設備や構築物を解体し、農村部では鉄製の農機具や炊事用具を供出させ、それぞれ屑鉄にした上で土法炉に投入するという、鉄製器具を消費して屑鉄を産みだすという、全くの本末転倒なことが行われた。結局生産された鉄の内、60パーセントが全く使い物にならない粗悪品だった。

この製鉄事業により大量の木材が伐採された為、毎年洪水が発生し、それは今も続いている。また農民が大量に駆り出されたため、管理が杜撰となった農地は荒れ果て、ノルマ達成のために農民の保有する鍋釜、農具まで供出されたために、地域の農業や生活の基盤が破壊されてしまった。