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明治天皇の御料馬の金華山号の流れは、その昔、伊達政宗が支倉常長をローマに遣わしたおりに、良馬改良のため数頭の種馬を購入したものの流れという。当時は島原の乱などで幕府の目が厳しかったために、これらの馬を秘境の地の鬼首に移牧して馬産を行なったという。これが軽種馬生産の創始といわれ、その子孫にあたるのが「金華山号」だとされる。

金華山号は、明治2年(1869)現在の大崎市鬼首で生まれ、明治天皇に13年間仕え、明治28年(1895)老衰で亡くなった。その後、明治34年(1901)、神馬として木像が刻まれ、この荒尾川神社境内の社に納められている。

明治天皇は、馬をこよなく愛した。国内外から御料馬が数多く集められたが、その中でもこの金華山号が明治天皇の寵愛を最も受けたと云う。

金華山号は、競りで水沢の商人が買い取り、やがて水沢県庁の所有となった。明治天皇は明治9年(1876)に東北に巡幸しみちのくの馬に心ひかれ、明治13年(1880)、水沢・佐野厩舎で育成された南部馬の同馬を買い上げた。栗毛の雄で体高148cmで小柄で、毛色にツヤもなく見栄えは決してよくなかった。馬は大変神経質な動物ですが、乗馬に適した馬は、落ち着きが必要で、何があってもあわてたりしないことが名馬の条件ともいわれている。その素養としっかりとした脚力が評価され、御料馬として買い上げられると同時に、金華山号と命名された。

宮内庁での調教訓練を受けて、初めて明治天皇が騎乗すると、天皇は、温和で癖のない金華山号を大いに気に入った。しかし何事にもひるまず、沈着鋭敏で、天皇はことのほか愛され、金華山号は公務を130回も務めたと云う。

その後、この馬は数々の逸話を残した。北陸へ巡幸の時、道筋の谷川に橋があり、そこに差しかかると、金華山号は橋の袂に停止し歩を進めようとしなかった。調べると橋台に朽木のあるのが見出され、応急に修理をしたところ、金華山号は安心したかのように渡って行った という。

明治22年(1889)11月、近衛師団の大演習が行われた折、野砲陣地から撃ち出される大砲のとどろきに、馬たちは混乱し、駆け出したり、乗っている騎兵を振り落としたりしたが、金華山号はまったく動じることなく、落ち着き払っていたという。それを見た天皇の従者は涙を流して「馬ながらあっぱれなものだ」と感動したという。

また、ある年の青山練兵場での観兵式では、天皇が騎乗し敬礼を受けている最中に前蹄の一方の土が、ずるずる崩れて、三本脚で立つような危い形 になった。しかし行進は始まっており、陛下は諸兵の敬礼を受けられている最中であり、三本の脚だけで懸命に姿勢を保ち続けたという。

また、足音だけで主がくるのを察知し、その姿を見つけると近寄り、おじぎをして騎乗の態勢を整えたとも伝えられる。天皇は、金華山号の姿を彫った文鎮を作ることを命じるほど寵愛した。

のる人の 心をはやく しる駒は  ものいうよりも あはれなりけり
久しくも わが飼う駒の 老いゆくが 惜しきは人に 変わらざりけり   …(明治天皇)

年老いたのち、御料馬としての勤めを終えた後も、明治天皇は金華山号をいたわり慈しんだと伝えられる。