平山氏は日奉宗頼を始祖とする武蔵国西党の一族である。宗頼は京都から武蔵府中に国司として赴任。任期終了後も帰国せず土着した。平安時代中期の平将門の乱が起こった頃には、武士団として活動していたようだ。
平山季重は、日奉宗綱の孫にあたり、平山氏は平安時代の末期には現在の東京都日野市、あきる野市付近に勢力を張った。院武者所に伺候したため平山武者所と呼ばれた。
平山季重は、保元元年(1156)の保元の乱では源義朝に従い、平治元年(1159)の平治の乱では義朝の長男源義平に従い、待賢門での戦闘で平重盛の軍勢500騎に17騎で戦いを挑んでいる。義朝の敗死後は平家に従い、在地領主として平穏な日々を過ごしていた。
しかし治承4年(1180)、源頼朝が挙兵するとそれに従い、その弟源義経に従って富士川の戦い、佐竹氏征伐にも従軍している。特に佐竹氏征伐の金砂城の戦いでは同僚の熊谷直実とともに抜群の戦功を挙げている。
寿永3年(1184)、季重は源義経率いる木曾義仲追討軍に従い上洛。宇治川の戦いでは義仲勢を撃破して京都へと入った。同年の一ノ谷の戦いでは源義経に従って、奇襲部隊に参加。同僚の熊谷直実とともに一ノ谷の平家軍に突入して、勝利のきっかけを作った。
翌元暦2年(1185年)の屋島の戦い、壇ノ浦の戦いでも常に先陣を切って、勇猛果敢に戦った。戦後、後白河法皇によって右衛門尉に任ぜられたが、頼朝に無断での任官であったため、頼朝の怒りを買った。
文治5年(1189)には奥州合戦に息子の平山重村と参戦。そこでも戦功を挙げ、鎌倉幕府の元老として取り立てられた。建久3年(1192)の源実朝誕生の際、鳴弦の大役を務めている。
しかし、源頼朝が没し、執権北条氏によって、創業の功臣たちが次々と粛正されていったことに対して、平山氏は本貫の地に戻り、幕府と一定の距離をおいたようだ。建武の中興の時代、新田氏の鎌倉攻めの際には、河村氏らとともに南朝側に味方したと考えられるが、北朝の足利尊氏軍に敗れ衰退したと思われる。
しかしそれでも、秋川流域の寺社に平山氏の遺構・遺品が伝えられているなど、平山氏は一定の勢力を維持していたようだ。その後、応永23年(1416)、前の管領上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に叛いた禅秀の乱が起こった。この乱において、公方方として活躍した武州南一揆を率いたのが平山三河入道(三河守正恭)であった。乱後、三河入道は足利持氏から檜原谷を与えられ、檜原城を築いたと伝えられている。
平山氏はその後、北条氏に従属し、檜原城は、北条氏の武田氏に対する境目の城となった。天正18年(1590)の小田原の役では平山氏重が、守備に当たり、八王子城の敗残兵らをまとめて、前田利家、上杉景勝らの軍勢と奮戦したが敵わず落城、平山氏重は自害し、平山氏は滅亡した。
しかしそれでも全国各地に平山氏の流れは存在しているようで、これらは南北朝期にその庶流が各地に散らばったものと思われる。
青森県五所川原市には、この地の豪農、豪商の平山屋敷があり、その主屋と門は、昭和53年(1978)、国の重要文化財に指定されている。
平山家は、この地の旧家ではもっとも古いと云われている。平山季重の末裔と考えられ、この地の平山氏の祖は、平山兵部良信だと伝えられ、長慶天皇に近侍しこの地に至ったと伝えられる。