「スイス」を「日本」に変換して考えた。
日本は、侵略を行うなどという夢想を決して持ってはいない。しかし、生き抜くことを望んでいる。日本は、どの隣国の権利も尊重する。しかし隣国によって踏みにじられることを断じて欲しない。
我が国の平和は守られている。にもかかわらず、それによって我々が盲人であってよいということにはならない。
共同体全体の自由があって、はじめて各個人の自由がある。われわれが守るべきことはこのことである。
自由と独立は断じて与えられるものではない。
民主主義は、何も生み出さないでじっとしていることと、破壊的に転覆することとの間に通じる、狭い、山の背のような道を、用心深くたどらねばならない。
あらゆる世代の人が、この建物の建築に自己の分担できる能力を寄与せねばならない。そして、時代遅れの制度は近代化する必要がある。
しかし取るべき措置とその実行に関する決定権は、すべて、その家屋の持ち主に属するものである。
(中略)
すべての国民は、外国の暴力的行為に対しては、抵抗の権利を有する。日本のすべての男子も女子も、もし、敵が不法な手段で、その身体、生命または名誉を脅かすような場合には、あらゆる方法で正当防衛を行う権利を有する。この権利は誰にも否定できない。
我々の平和な生活をその手中に握っている強大国が、理性的であり賢明であることを、心から希望する。しかし希望を確実な事実であると見ることは、常軌を逸した錯誤であろう。そこで最悪の事態に備える覚悟をしておく必要がある。
たとえ国外で戦争が起きないとしても、また、大国が実際には核兵器を使用する気がないとしても、大国が、核兵器で脅して、政治的、経済的に圧力をかけることはできるし、ある民族を脅しによって従わせることもできよう。原爆に対する防御の用意を完全に行っている民族だけが、このような圧力に抵抗することができるのだ。
我々はあらゆる事態の発生に対して準備せざるを得ないというのが、最も単純な現実なのである。
国民に対して、責任を持つ政府当局の義務は、最悪の事態を予想し、準備することだ。
武器を取り得るすべての国民によって組織され、近代戦用に装備された強力な軍のみが、侵略者の意図をくじき得るのであり、これによって、われわれにとって最も大きな財産である自由と独立が保証される。
抵抗の力は、これに参加するすべての人々が、自分に与えられた任務と、それを達成するための各自の手段方法を理解し、実地に応用できるように訓練して、初めて有効なものとなる。
軍隊は、その背後に国民の不屈の決意があることを感じた時、初めてその任務を完全に遂行できるのだ。
戦時において、人命保護および人命救助のために救護組織に参加するものは、手をこまねいて傍観している者よりも困難に耐えることができる。つまり、自分の任務を、義務をはっきりと自覚している者は、混乱や恐怖に直面しても、それに簡単に巻き込まれるようなことはない。
だから、一朝有事の際に役に立ちたいと思っている者は、平時からその任務遂行のために準備をしておかなければならない。その心の用意なく不意打ちを受けると、悲劇的な破局を迎えることになってしまう。
「我が国では決して戦争はない」と断定するのは軽率であり、結果的には大変な災難をもたらしかねないことになってしまう。
大切なことは、われわれ国民が、外敵のどのような圧力にも、どのような脅しにも屈すること無く反撃できるように、毎日心がけていることである。
世界とともに平和に生きることを欲しない日本人があろうか。戦争を非としない日本人がいるだろうか。我々が軍隊を置いているのは、他の国が我々を平和に生きさせておいてくれる為である。
それを知らないとしたら、我々は、お人好しである、軽率だということになるだろう。我々を取り囲む国々が武装し続ける限り、我々は国家の防衛を怠ることはできない。