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アロー戦争(第二次アヘン戦争)後結ばれた天津条約では、清朝内陸へのキリスト教布教を布教を認める条項があり、以後多くの外国人宣教師が内地へと入り勢力を拡大していった。しかし、外国人宣教師たちは、宗教的信念と戦勝国に属しているという傲岸さが入り交じった姿勢で、中国社会の慣行を無視することが多く、しばしば地域の官僚・郷紳と衝突し、トラブルが多発するようになった。

そのような状況で、山東に「義和団」が台頭し始めた。もともとこの地域には大刀会という武術組織があり、郷土防衛や治安維持を担った自警団的性格をもっておりこれが義和団の母体となった。やがてカトリック信者と一般民衆との土地争いなどに介入し、争乱を生じるようになった。

義和団は極めて強い宗教的性格を有し、呪術によって神が乗り移った者は刀槍不入をとなえ、刀はおろか銃弾すら跳ね返すような不死身になると信じられていた。

この義和団が、その勢力を拡大しながら暴徒と化して北京に向かって進軍した。清朝はこれを鎮圧しようとしたが、列強諸国に対する抵抗の意味もあり、列強を苦々しく思っていた点では清朝内部の高官も、西太后も同じであり、義和団への対処に手心を加えた。

1900年6月、20万人の義和団が北京に入城し我が物顔に横行するようになり、日本公使館書記官と、ドイツ公使が清国軍により殺害された。これをきっかけとして、清朝はイギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアら欧米七列強と日本の列強連合軍に対し「宣戦布告」を行った。

この清朝の宣戦布告により、清朝内に在住する外国人及び中国人クリスチャンは孤立し、特に北京にいた外国公使たちと中国人クリスチャンにとっては切迫した事態を招来した。当時紫禁城東南にある東交民巷というエリアに設けられていた公使館区域には、およそ外国人925名、中国人クリスチャンが3,000名ほどの老若男女が逃げ込んでいた。しかし各国公使館の護衛兵と義勇兵は合わせても481名、日本兵も25名に過ぎなかった。以降、翌日から八カ国連合軍が北京を占領する8月14日までのおよそ2か月弱、籠城を余儀なくされた。これがいわゆる「北京の55日」である。

この籠城にあって日本人柴五郎の存在は大きく、籠城成功に多大な寄与をしたと言われる。柴五郎は当時砲兵中佐の階級にあり、北京公使館付武官として清朝に赴任していた。籠城組は各国の寄り合い所帯であったため、まず意思疎通が大きな問題となったが、英語・フランス語・中国語と数か国語に精通する柴中佐はよく間に立って相互理解に大きな役割を果たした。この籠城組の全体的な指導者はイギリス公使クロード・マクドナルドであったが、籠城戦に当たっての実質総指揮を担ったのは柴五郎だった。

清朝は西太后の命により「宣戦布告」をしたものの、当初から列強に勝利する確信は無かったようだ。したがって消極派は敗戦後の連合軍の報復を考慮したのだろう、清国軍は総じて士気は低く、徹底抗戦派と和平派の綱引きの間に、籠城組は置かれていたといえる。

清朝軍によって襲撃・夜襲を仕掛けられることはあったものの、その間公使団と清朝とは話し合いをもち、時折休戦が差し挟まれ、休息することが可能だった。特に7月17日以降から北京陥落の数日前までは、比較的穏やかな休戦状態が維持継続され、尽きかけた食料・弾薬を調達することもできた。8月11日から14日までは再び清朝軍の攻勢が強まったが、8月14日の午後ついに日本軍を主体とした援軍が来て2か月弱の籠城戦は終わりを告げた。

ロシアはこの義和団事件に便乗し、大軍勢を満洲に派遣した。ロシアの権益拡大を怖れるイギリス首相は再三にわたって日本に出兵を要請した。列強諸国は、イギリスは南アフリカでボーア戦争を戦っており、アメリカは、米比戦争中であるなど、それぞれが抱える諸問題のため多くの兵力を送る余裕が無かった。そのため混成軍は総勢約2万人にすぎず、最も多くの派兵をおこなったのは日本とロシアだった。

この日本軍派兵には様々な思惑が込められていた。北京での籠城軍の救援保護は勿論であるが、清国における日本の権益拡大や、清朝を叩くことで朝鮮半島における日本のアドバンテージを確立すること、ロシアの牽制、欧米列強に対して存在感を誇示することなどであった。

戦いは天津城から始まった。しかし清国兵の装備は古く、義和団に至っては、武器は刀と槍だった。連合軍は天津城を落とし、北京攻勢を開始し翌日には陥落させ北京を占領した。西太后は光緒帝を同行し逃亡した。これにより「北京の55日」は終わりを告げた。

柴は各国篭城部隊の実質的司令官として他国軍と協力して居留民保護にあたり、また60日に及ぶ篭城戦を戦い、その功を称えられた。事変後、柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与され、ロンドン・タイムスはその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記した。

この北清事変における日本軍の規律正しさは、列国を感嘆させ、日本に対するイメージを一変させた。また、特に、イギリスは日本を高く評価した。イギリスのマスコミは日本をべた褒めし、イギリス公使は「日本は信頼に足る国である」と本国に忠言、日本に同盟を提案して、その後の日英同盟締結につながっていく。

満州を狙っていたロシアは、義和団の乱が支那から満州にまで及んだときに増派して、ついには全満州を占領してしまった。しかし、清国はロシアを満州から追い払うことはできなかった。満州からロシアの勢力を追い払ったのは、その後の日露戦争に勝利した日本だった。

「北京の55日」を戦い抜いた柴五郎は、会津藩の藩士である柴佐多蔵の五男として生まれた。会津戦争の籠城戦前に、戦に足手まといになるとし、祖母・母・兄嫁・姉妹は自刃した。自刃前に親戚に預けられた当時八歳の五郎は助かり、開城後、五郎は年少のため幽閉を免れ、焼けた屋敷跡から、自害した祖母・母・妹たちの遺骨を泣きながら拾い集めた。その姿を見た近所の人々は、西軍の懲罰すら顧みず、1片の遺骨をも見逃すまいと、日暮れまで手伝いを厭わなかったという。

五郎は、兄たちや父親とともに、藩主と同じ陸奥国斗南へ移住し、「挙藩流罪」とも言える新政府のこの仕打ちに、冷涼でやせた大地で、飢餓のため生死の境をさまよった藩士たちも多くいた。それでも五郎は藩校・日新館、青森県庁給仕を経て、明治6年(1873)3月、陸軍幼年学校に入校。明治10年(1877)5月、陸軍士官学校に進み明治12年(1879)12月、陸軍砲兵少尉に任官され、翌年12月に士官学校を卒業した。

北支事変の後は、明治37年(1904)4月、野戦砲兵第十五連隊長として日露戦争に出征した。明治40年(1907)、陸軍少将に進級したが、閑職に就くことが多く、陸軍大学校を出なかったからとも、朝敵である会津藩の出だからともいわれた。しかしそれでも、大正8年(1919)には陸軍大将に親任された。

昭和20年(1945)、太平洋戦争敗戦後に身辺の整理を始め、9月15日に自決を図ったが、老齢のため果たせず、しかしその怪我がもとで病死した。享年85歳だった。