釜山橋頭堡の戦いで、北朝鮮軍は大きく消耗した。北軍は、補給部隊が貧弱で、38度線から300キロメートル以上離れた釜山周辺で孤立し始めていた。また、兵力の3分の2は、韓国内で強制徴募した新兵で、士気は低く、命令に従わない場合は即時射殺され、恐怖により部隊が維持されている状態だった。
マッカーサーは、北軍の伸び切った貧弱な補給路を断ち切るため、ソウル近郊の仁川に奇襲上陸し、その補給路を断ち、釜山を守っている第8軍を北上させ、南北より北軍部隊を挟撃する作戦を立てた。これが仁川上陸作戦である。マッカーサーは、陽動作戦など周到な準備を行い、9月15日に作戦を実行し、大きな抵抗もないまま作戦は成功した。
半島南端まで深く侵攻し、釜山周辺の戦いで消耗した北朝鮮軍は、仁川上陸作戦により補給路を断たれ、北軍は撤退するしか方法はなかった。9月28日に国連軍がソウルを奪還し、9月29日には李承晩ら大韓民国の首脳もソウルに帰還した。これで戦争は終結かと思われたが、李承晩は国内の北朝鮮協力者を探しだし、居昌や山清など各地で韓国警察により、親北朝鮮とみなされた非武装住民が虐殺された。また李承晩は、これを「北進統一」の好機と考え、アメリカの武力を背景に、北側に攻め込むことを企図した。
しかしこの時は、アメリカ国内はもちろん、ソ連も中国も、長い第二次世界大戦の後だけに、戦争には倦んでいた。ソ連は北側に武器を供給はしても、軍を出すつもりはなく、中国も、国連軍が38度線を越えることがなければ参戦するつもりはなかった。そのような中で、韓国軍は、マッカーサーの暗黙の了解を得て、10月1日、独断専行で38度線を超え、国連軍もそれに引きずられるように10月7日38度線を超えた。
10月20日に、国連軍は北朝鮮の首都の平壌を制圧、さらにアメリカ軍を中心とした国連軍も、トルーマン大統領やアメリカ統合参謀本部の命令を無視し北上を続けた。中国軍は出てこないとの予測の下、敗走する北朝鮮軍を追い進撃を続け、日本海側にある軍港である元山市にまで迫った。さらに先行していた韓国軍は10月26日に中朝国境の鴨緑江に達し、「統一間近」とまで騒がれた。
中国の周恩来は、ソ連軍の参戦を求めたがスターリンに「アメリカ軍との直接対決は避ける」と呆気なく断られ、やむを得ず、毛沢東の強いリーダーシップのもとで参戦が決定された。中国軍は10月19日から隠密裏に鴨緑江を渡り、北朝鮮への侵入を開始した。中国軍の装備は、アメリカと比較すれば旧式なものだったが、100万の兵力はそれを補うものだった。
中国軍は、11月に入り国連軍に対して攻勢をかけ、アメリカ軍やイギリス軍を撃破し南下を続けた。国連軍は補給線が延び切って、武器弾薬、防寒具が不足し、これに即応することができなかった。中国軍は山間部を移動し、神出鬼没な攻撃と人海戦術により国連軍を圧倒、韓国第二軍が壊滅し、国連軍も包囲され、平壌を放棄し38度線近くまで潰走した。1951年1月4日には、ソウルが再度奪われ、韓国軍、国連軍の戦線は潰滅し、2月までに忠清道まで退却した。
これに対し、韓国の李承晩は、国民防衛軍法を発効し、直ちに国民防衛軍を組織し40万人を動員した。しかし、急ごしらえに編成された軍隊であるため、将兵の動員、輸送、訓練、武装などのための予算不足、指揮統制の未熟など問題点が多かった。そのような中での1951年初頭、北朝鮮、中国両軍の攻勢を受けた韓国軍は、国民防衛軍を、後方の大邱や釜山へと集団移送することになった。しかし、防衛軍司令部の幹部達は、国民防衛軍のために用意された軍事物資や兵糧の米などを、不正に処分、着服、その結果、極寒の中を徒歩で後退する将兵に対する物資供給に不足が生じ、9万名余の餓死者、凍死者と無数の病人を出す「死の行進」となった。そしてこの着服金の一部が、李承晩大統領の政治資金として使われたことも後に明らかになった。
このような、国中が戦火の真っ只中にありながらも、その権力内部では国民に目をやることもなく、虐殺と腐敗が横行するさまは、李氏朝鮮時代の両班政治以上にひどいものだったといえる。