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国連軍が韓国側として参戦したが、準備不足で人員、装備に劣る国連軍は各地で敗北を続けた。韓国側は、結局水原も放棄し、釜山まで追い詰められていた。

この釜山まで退却する間に、韓国軍は保導連盟員や共産党関係者の政治犯など20万人以上を殺害、また、北朝鮮軍は、大韓青年団員や区長、警察官、地主やその家族など、民間人数十万人を「右翼活動の経歴がある」などとして虐殺した。また、北朝鮮軍によるアメリカ兵の「303高地の虐殺」も起きた。
この時期には、釜山陥落も危惧される情勢となり、韓国政府は日本の山口県に6万人規模の人員を収用できる亡命政府を建設しようとし、日本側に準備要請を行うまでに至った。李承晩は、韓国の成り立ちを、抗日の独立戦争により勝ち取ったものとするために、日本軍によって薫陶を受けた元日本軍士官だった朝鮮人や、元日本軍韓国人兵士らを、軍の主要な任務には就けず、元日本軍兵士だった韓国人だけでの部隊の編制も禁止していた。

しかし李承晩はここにいたり、止む無く、それまで遠ざけていた日本の陸軍士官学校出身の金錫源に、元日本軍兵士たちだけでの師団編成を認め、金錫源は、元日本兵だけを集め、1個師団を編成した。この師団は実戦経験も豊富で、金錫源はかつては中国軍にも勇将として恐れられていた人物で、士気は高かった。

しかし師団は銃器程度の武器しかなく、ソ連製戦車の前では、赤子同然の兵力でしかなかった。金錫源将軍の師団が釜山東部で配置に付いた時、北朝鮮軍は、戦車を先頭にした大軍で、これを包囲し、集中放火を浴びせてきた。これに対して金錫源は、頃あいをみて、兵力を敵右翼に集中、北朝鮮軍に一斉砲撃をしかけ、突撃を命じると、その勢いに押され北朝鮮軍は後退した。しかし圧倒的な火力の差がある北朝鮮を深追いすることはなく、金錫源は全軍に退却を命じると、北朝鮮軍の戦車部隊は韓国軍の追撃を始めた。これは金錫源の戦術だったようで、北軍の戦車部隊が海岸線に出てくると、待ち受けていたアメリカ軍艦の艦砲射撃が襲い、北軍の戦車軍団は壊滅状態に陥った。

金錫源たちが戦った釜山の反対側の西側では、韓国軍一個大隊が、北朝鮮軍の攻撃の前に危機的状況にあった。そこに、白善燁(ペク・ソンヨプ)指揮する第一師団が駆けつけた。金錫源は、満州国軍に任官し、間島特設隊に配属され戦った日本帝国陸軍中尉の経歴を持ち、ソウル会戦では、第一師団長として兵の半数を失いながら最後まで戦った。

白善燁は、この時はマラリアを患い高熱を発し、病院にいたのを抜け出てのことだった。彼は、散らばっていた元日本兵だけを集め、ねぎらいの言葉をかけ、鼓舞し、「俺が臆病風にふかれたら後ろから撃て!」と兵たちの先頭に立ち突撃した。この攻撃で、四八八高地を北朝鮮軍から奪還し、そこから谷底の北朝鮮軍にむかって猛烈な砲火をあびせ、北朝鮮軍を潰走させた。これは、朝鮮戦争中に師団長が突撃をした唯一の場面だった。これらの戦いで、韓国軍の戦意を疑っていたアメリカ第27連隊マイケレス連隊長は、この姿に感激し、以後のアメリカ軍と韓国軍の信頼度が増したという。

これらの戦闘により、前線の北朝鮮軍が分断され無力化されたことで、米軍はその退路を断つための仁川上陸作戦を発動し、9月末にはソウル奪回を果たした。このとき、ソウルに一番乗りしたのは、白善燁が指揮する第一師団だった。

金錫源や白善燁ら、旭日旗の下に集まり戦った韓国救国の英雄たちは、盧武鉉政権時代にすすめられた親日派弾劾運動で、反民族特別法により、親日人名辞典に記載され、日本の韓国植民地統治に協力した親日派としてリストアップされ、現在は不当な扱いを受けている。