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沼館での戦いをしのいだ清原家衡は、清原武衡の策に従い、主力を難攻不落といわれる金沢柵に移し、沼館には別動隊を置き、状況によっては義家軍を挟撃することができる体制をとった。

金沢柵は、比高約100mほどの独立丘陵の山頂部の、十文字に張り出す山稜に築かれていた。周囲は急勾配であるが、山頂部は平坦で結構広い。山頂部はピークが2つあり、現在金沢八幡宮が建つ中央部が二ノ郭で、その北西部が三の郭、南東部のピークが本郭で、北東の尾根に北郭、南西の尾根に西郭が配されている。本郭は70m×50mほどあり、他の郭もかなり広い。それぞれの郭には堀切があり、特に本郭南東部には5重の堀切や竪堀が見られ、北郭には土塁状の地形や虎口と思われる地形も見られる。本郭と二ノ郭間の鞍部には兵糧倉があったとされ、今でも炭化米が出土するという。その他にも、頂上への途中登城路周辺には、空堀状地形や郭跡と思われるものが無数にある。

沼館で苦戦した義家軍には、新たに弟の新羅三郎義光の軍300が加わり、金沢柵攻略の詳細な作戦が立てられた。

寛治元年(1087)、義家軍を3隊に分け、鎌倉権五郎景政率いる部隊を金沢柵の抑えとして残し、義光軍を沼館攻めに向かわせ、義家率いる主力も沼館攻めに向かい、もし清原軍が出てくれば、景政軍と連携して出てきた清原軍を挟撃することになった。

義光軍は沼館の西側に陣をおき、義家軍本隊は東側に陣をおき、沼館に攻めかかった。沼館は雄物川が形成した湿地帯で囲まれた堅城だったが、一度苦杯を飲んだ義家は、湿地帯対策にも万全を期しており、周りの葦を刈り敷くなどして進撃路を確保して沼館に攻めかかった。

金沢柵からは清原軍が沼館に救援に向かおうとしたが、景政軍にはばまれ激戦になった。金沢柵の入口に「景政功名塚」があり、その小高い丘は、小さいながら独立した出城的な役割を持っていたように思われ、この地で激戦が戦われたようだ。戦いののちに、義家の命により、この地に敵の戦死者を手厚く葬り、供養の塚を築き、塚の上に杉を植えたと云う。杉は900年の時を経て巨木となったが、昭和23年(1948)、火災により枯死した。現在その幹が現地に保存され、景政の伝説を伝えている。

沼館への救援を阻まれた清原軍は、やむを得ず、少人数の遊撃隊を沼館に向かわせた。しかし、沼館は救援もない中落城した。

沼館を落とした義家が、金沢柵へ向かい行軍中、現在の「平安の風わたる公園」の西沼の付近を通りかかった。義家がこの地で馬を止め空を見上げると、整然と列をなして飛んでいるはずの雁が乱れ飛んでいた。義家が京にあったとき、京で有名な兵法家であった大江匡房より孫子の兵法を学び、その中に、「雁の列乱るるは伏兵の兆なり」という中国の故事があったのを思い出した。義家はすぐに兵に探らせたところ、思った通り30余名の清原軍の伏兵を見つけた。

これは、金沢柵から沼館に向かった遊撃隊だったが、沼館が落ちたため、この地で義家軍を待ち構えていた。しかしいち早く、この伏兵を見破った義家軍は散々に弓をいかけ、これを難なく殲滅した。しかし後に、「師の匡房の言葉を思い出さなかったら、あぶなかったところだ」と語ったと云う。

沼館を落した義家軍は、金沢柵を包囲し攻撃するが、その守りは固く、なかなか落ちない。このままではまた前回の沼館の敗戦時同様、冬将軍到来による敗退ということもありうる。吉彦秀武は兵糧攻めを提言した。

この当時の城柵は、戦時だけを想定しており、後年の城のように長期戦は想定していなかった。したがって、兵糧の蓄えは十分ではなく、沼館が落ち、外から兵糧を運び入れる手段もなく、次第に金沢柵の兵糧は乏しくなり、飢えを訴える者も出始めた。

金沢柵の家衡と武衡は、「女・子供を逃せは、少しは食料不足が軽くなるだろう」として、柵から逃がすことにした。義家軍のもとに柵から女子供が投降してきた。義家はいったんはこれを助命しようとしたが、城の食糧を早く食べ尽くさせるため投降を許すべきではないとの秀武らの意見を入れ、城に追い返し、逃走をはかるものは処刑した。これで、金沢柵には沢山の非戦闘員である女・子供も外に逃げ出せなくなり、食糧不足は更に深刻化した。

城方は、馬の肉も食べ、木の根をかじり、耐えていたが、そのような中で、城方の一人の武将が矢倉の上から大音声で義家を罵倒し始めた。この武将は家衡の養育係だった千任(ちとう)という武衡の家臣だった。その内容は「前九年の役の際に、頼義・義家父子は、清原氏に、清原の家臣になるとまで誓い、加勢を頼み、陸奥の安倍一族を討つことができた。それが今、恩義ある清原一族を攻めるとは、恩知らずで不忠不義の輩だ!!」のようなものだった。

この千任は、金沢柵の総攻撃の際に、義家方に捕らえられ、歯を折られ、舌を抜かれ、木につるされ、足元には主の武衡の首が踏みつけられる位置に置かれ、「不忠不義の輩」と罵倒されながら死ぬまで放置された。

義家軍の金沢柵総攻撃の前日、家衡は、名馬として名高い愛馬「花柑子(はなこうじ)」が義家軍に渡るのを惜しみ、自分で弓矢を用い射殺した。そして軍議に集まった家臣らに、「今夜、この柵に火を放つ。皆はそのドサクサに紛れて逃げ延びて欲しい。」と告げた。

柵には火が放たれ、城方の将兵らは金沢柵から逃げ出そうとしたが、その多くは義家方の将兵により殺され、あるいは捕らえられた。清原武衡は、金沢柵に火を放ち、夜陰に紛れてなんとか柵からは逃げ出し、近くの蛭藻沼まで落ち延び、刀の鞘の尻をきり落とし口に当て、沼に沈み潜んでいるところを捕らえられ斬首された。

家衡は行商人に身をやつして逃亡を図ったが義家配下の武将に見つかり、矢で射かけられ、捕らえられ斬首された。家衡は、清衡屋敷を襲撃し、心ならずも清衡の妻子とともに殺してしまった母親を思い涙を流し、「私はやはり清原家宗家の器ではなかった。」といったと云う。


この後三年の役は源義家の私戦とされ、これに対する勧賞はもとより戦費の支払いもなく、また義家が役の間、決められた黄金などの貢納を行わず戦費に廻していた事や官物から兵糧を支給した事から、陸奥守も解任されこの地を去った。結果として義家は、主に関東から出征してきた将士に私財から恩賞を出したが、このことが却って関東における源氏の名声を高め、後に玄孫の源頼朝による鎌倉幕府創建の礎となったともいわれている。

結果として清原清衡は、安倍氏の旧領の奥六郡と、清原氏の仙北三郡すべてを手に入れた。これには、奥羽の金を駆使しての、朝廷に対する働きかけがあったことが容易に推測できる。清衡は、その後、実父である藤原経清の姓藤原に復し、その後、平泉藤原氏三代の栄華の基礎を築くことになる。