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工藤俊作は、明治34年(1901)、現在の山形県高畠町の農家の次男として生まれた。山形県立米沢中学校(現・米沢興譲館高校)を卒業し、大正9年(1920)、海軍兵学校に入学。海軍兵学校を卒業後は、軽巡洋艦「夕張」に配属された。大正18年(1924)に戦艦「長門」に転属、海軍少尉に任官。以降、水雷学校、砲術学校の学生を経て、昭和4年(1929)には駆逐艦「旗風」の航海長となり、カムチャツカ方面の警備を担当。以後、駆逐艦「桃」水雷長、軽巡「多摩」水雷長、軽巡「五十鈴」水雷長など、水雷長を歴任する。昭和12年(1937)、海軍少佐に昇進、翌年駆逐艦「太刀風」の艦長となり、昭和15年(1940)には駆逐艦「雷」の艦長となり、そのまま太平洋戦争を迎えた。工藤艦長の「雷」は、第六駆逐隊に属し、蘭印作戦等の南方の諸作戦に参加した。

日本は資源地帯であるオランダ領インドネシア占領を目標とし、昭和17年(1942)2月に行動を開始した。陸軍の上陸船団とその護衛艦隊として、南方部隊麾下の部隊が投入された。そのような中、2月27日から3月1日にかけて、スラバヤ沖海戦が戦われた。

日本軍船団は東西に分かれて進撃することになった。西部ジャワ攻略部隊はジャワ島西部のバタビアにむけ進軍し、東部ジャワ攻略部隊は輸送船約40隻に分乗してジャワ島東部のスラバヤを目指した。東部ジャワ攻略部隊を護衛するのは、旗艦「足柄」麾下の蘭印部隊、東部ジャワ攻略部隊は、第一護衛隊も含めると、約60隻に及ぶ大規模な船団だった。これらはスラバヤ西方のクラガン海岸を上陸目標としてマカッサル海峡を南下、ジャワ海を航行していた。

対する連合国軍は、日本軍の進撃を阻止すべくアメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリアの各国軍で構成されたABDA司令部を設置し、カレル・ドールマン少将を司令長官とするABDA艦隊を編成した。しかし、この時点でこの地域のABDA連合勢力は脆弱だった。

日本艦隊は、重巡・那智、羽黒を中心とした、高木少将率いる第五戦隊、第四水雷戦隊、第二水雷戦隊の軽巡、駆逐艦が主体となった。ABDA艦隊は軽巡、デロイテルを旗艦としドールマン少将を司令長官とし、重巡エクセター、ヒューストン、軽巡バースと駆逐艦群により構成されていた。

戦いは2月27日から始まり、午後5時前後、双方ともに艦隊を発見し砲雷撃戦が始まった。軽巡羽黒の砲弾が、重巡エクセターの機関部に命中し、また日本艦隊が放った魚雷のうち一本が駆逐艦コルテノールに命中しコルテノールはV字型に折れ轟沈した。この混乱を見たABDA艦隊のドールマン少将は、一旦戦場を離脱し、体勢を立て直すことを決断し、戦域離脱を図った。

この連合軍艦隊の混乱を見て、高木少将は直ちに「全軍突撃せよ」を下令、そのまま夜戦に入った。英駆逐艦のエレクトラ、エンカウンター、ジュピターは、英重巡エクセターを援護し突撃してくる日本の駆逐隊への阻止攻撃を行っていたが、砲撃戦となり、エレクトラは撃沈された。このとき戦闘海面は日没して暗くなり、煙幕と砲煙により視界は極度に悪化。夜戦の準備をしたまま待機状態となった。

一旦戦線を離脱したABDA艦隊のドールマン少将は、艦隊戦では彼我の戦力差から不利と考えて、ジャワ島沿岸スレスレまで南下し陸沿いに進撃することで日本艦隊の目をくらまし、日本船団に直接突入することを企図した。しかし、途中、英駆逐艦ジュピターが機雷に触れて大爆発を起こして炎上し、また駆逐艦エンカウンターは多数漂流していた自軍の生存者を救出し艦隊を離れた。

こうして連合軍艦隊は巡洋艦4隻(デ・ロイテル、パース、ジャワ、ヒューストン)だけとなってしまったが、ドールマン少将はあくまでも日本船団に対する攻撃を諦めず、ひたすら日本船団がいると思われる海域へ北上していった。

2月28日0時33分、両軍は会敵し砲雷撃戦となった。旗艦那智が8本、羽黒が4本の魚雷を順次発射、旗艦デ・ロイテルの後部に魚雷1本が命中して火薬庫に引火・炎上、最後尾のジャワの艦尾にも魚雷が命中し、急速に沈没した。ドールマン少将はバタビアに避退の命令を出し、その直後、デ・ロイテルは沈没し、ドールマン少将以下殆どの乗員が戦死した。

3月1日午前2時35分、輸送船団はジャワ島クラガン泊地に進入、第一次上陸部隊が上陸を果たした。順調にジャワ島攻略作戦を実施する日本艦隊に対し、スラバヤに帰投したABDA艦隊は惨憺たる有様だった。残存艦隊にとって最大の問題は、日本軍輸送船団の撃滅ではなく「どうやってジャワ海から脱出するか」になっていた。

2月28日午後6時、英重巡エクセターは駆逐艦ポープ、エンカウンターを従えて出港した。一方、バタビアに退避していたアメリカの米重巡ヒューストン、蘭軽巡パース、駆逐艦エヴェルトセンもエクセターと同時刻にバタビアを出港、しかし、3月1日午前0時ごろ日本軍輸送船団と遭遇、第三護衛隊との戦闘によりヒューストンとパースは撃沈され、エヴェルトセンも座礁して失われた。

3月1日午前4時、日本軍はクラガン泊地への敵前上陸に無事成功した。

御前11時03分、哨戒中の日本艦隊が、エクセター隊を発見、第五戦隊部隊の重巡足柄・妙高とともに追撃を開始した。エクセター隊は、煙幕を張りスコールに逃げ込み逃走をはかったがスコールが去った時には英艦隊は包囲されていた。

重巡那智、羽黒が距離25kmでエクセターに対し射撃を開始、エクセターも反撃し、那智の周辺に水柱が上がる。日本軍は英軍艦隊を包囲し、集中砲撃を浴びせた。午後12時30分、エンカウンターは砲撃により被弾し、舵故障を起こして速度が低下した。動力を全て失ったエクセターは航行不能となり、主砲も動かなくなり、エクセター艦長は総員退去を命じ、乗組員は海に飛び込み始めた。駆逐艦の雷がエクセターに肉薄して魚雷を発射し、一本がエクセターの右舷に命中。続いて足柄、妙高も砲撃を開始した、止めを刺されたエクセターは午後1時30分右舷に転覆して沈没した。

なおも日本軍は残った駆逐艦エンカウンター、ポープの追撃を行った。エンカウンターは集中砲火を浴び、完全に戦闘不能となり、沈没した。ポープは一旦日本艦隊の追撃から離脱したが、九七式艦上攻撃機の爆撃により航行不能になり、総員退去した。その後、日本艦隊の主隊が航行不能のポープに砲撃を始め、六斉射目でポープは大爆発を起こすと僅か15秒で沈んでいった。



工藤俊作はこの一連の戦いの中で、駆逐艦雷の艦長として、主にエクセター隊の追撃戦に参加し、友軍と共同してイギリス海軍の重巡洋艦「エクセター」や「エンカウンター」を撃沈するなどの戦果を挙げた。しかし駆逐艦「雷」の物語は始まったばかりだった。

工藤は身長185cm、体重95kgといった堂々とした体躯で柔道の有段者であったが、性格はおおらかで温和であった。そのため「工藤大仏」という渾名がついたという。艦内では鉄拳制裁を厳禁し、部下には分け隔て無く接していた事から、部下の信頼は厚かったようだ。

翌3月2日、航行中の「雷」は漂流者を発見。彼らは前日の掃討戦で沈没した「エンカウンター」等の乗組員であった。近くにオランダ軍の基地があり、救助の艦船が来るのを期待していたが、夜が明けても味方の救助は来なかった。漂流者の体力は限界に近づいていた。そこに現れたのは味方ではなく日本の駆逐艦だった。イギリス兵たちは、日本軍は漂流者を見つけると機銃掃射をしてくると教えられており、絶望し覚悟を決めたという。

しかし「雷」艦長の工藤は「おい、助けてやれよ」と一言発して救助を指示した。しかしこの海域にはアメリカの潜水艦が出没しており、救助中に攻撃を受ければひとたまりもない。見れば、漂流者は「雷」の乗組員よりも多い400人以上もいた。それでも工藤艦長は潜水艦への警戒を厳重にすることを命じ、副長の懸念をはねのけ救助を命じた。マストに救難活動を示す国際信号機が掲げられ救助活動が始まった。

「雷」からは、救助のためのロープや縄はしごが降ろされたが、イギリス兵たちはケガをしているものを優先的に救助することを求めた。また自分らも体力の限界にあり、自力で「雷」にあがることはむずかしかった。工藤艦長は、一番砲だけを残し、全員が救助に当たることを命じた。このとき、「雷」の乗組員とイギリス兵の間には敵も味方もなかった。

救助活動は、危険を冒しながらも3時間に亘り行われ、「雷」は乗組員に倍する422名を救助した。工藤は救助した英士官に英語で「あなた方は日本海軍の名誉ある賓客であり、非常に勇敢に戦った」とスピーチしたという。翌日、バンジェルマシンに停泊中のオランダ海軍の病院船「オプテンノール」に引き渡した。

この敵兵救出の事実は、戦時中の国民世論の反発を考慮して公表されず、工藤自身もこのことを親族にも語らなかったという。

その後、工藤は昭和17年(1942)8月に駆逐艦「響」艦長に就任、11月に海軍中佐に昇進した。しかし雷は工藤が離艦後まもなく撃沈され乗組員は全員死亡した。工藤自身は、昭和19年(1944)11月から体調を崩し、翌年3月に待命となった。戦後は故郷の山形で過ごしていた。その後、妻の姪が開業した医院の仕事を手伝うため埼玉県川口市に移ったが、昭和54年(1979)に胃癌のため没した。

この駆逐艦雷による救出劇は、工藤の遺族も含め日本人で知るものはいなかった。がこの逸話を知ったのは、助けられたイギリス海軍士官のうちの1人であったサムエル・フォール元海軍中尉によってである。

駆逐艦「雷」に救助された砲術士官であったサムエル・フォール元海軍中尉(フォール卿)は、戦後は外交官として活躍したが、恩人の工藤の消息を探し続けていた。フォール卿は昭和61年(1987)にアメリカ海軍の機関誌「プロシーディングス」の新年号に「武士道(Chivalry)」と題する工藤艦長を讃えた7ページにわたる投稿文を掲載した。また平成10年(1998)に、天皇訪問を控えてイギリスでの反日感情が高まりかけていた時期に、タイムズ紙に「雷」の敵兵救助を紹介する投稿文を送って反日感情緩和を図った。

フォール卿が工藤の消息を探し当てた時には既に他界していたが、2008年12月に66年の時間を経て埼玉県川口市内の工藤の墓前に念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えた。

この工藤による敵兵救助行為をたたえるべく、出身地の高畠町に有志らによって顕彰碑が建立されている。