工藤氏は藤原南家の流れで、平将門の追討に功のあった常陸介惟幾の子の為憲を祖とし工藤氏を称した。その後、工藤維職は伊豆国押領使として伊東の地に住し伊東氏の祖となった。
工藤祐経の父の祐継が早世すると、父の遺言により義理の叔父である伊東祐親が後見人となる。元服ののち、祐経は祐親の娘・万劫御前を娶り、祐親に伴われて上洛し平重盛に仕えた。歌舞音曲に通じており、「工藤一臈」と呼ばれた。だが、祐経が在京中に祐親は祐経が継いだ伊東荘を押領してしまい、妻の万劫御前まで奪って土肥遠平に嫁がせてしまった。押領に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。
所領と妻をも奪われた祐経は祐親を深く怨み、祐親の殺害を図り、安元2年(1176)10月、郎党に命じ、伊豆奥野の狩り場から帰る道中の祐親父子を襲撃させ、祐親を討ち漏らしたが祐親の嫡男・河津祐泰を射殺した。この工藤祐経による、源頼朝に敵対した伊東祐親・祐泰父子襲撃が、頼朝の意に沿ったものであったために、後に祐経は頼朝に重用されたのかもしれない。
後に、祐泰の妻と子の一萬丸(曽我祐成)と箱王(曽我時致)の兄弟が残され、妻は子を連れて曽我祐信に再嫁し、兄弟は後に曽我兄弟として世に知られる事になる。
治承4年(1180)8月の源頼朝挙兵後、平家方として頼朝と敵対した伊東祐親は、10月の富士川の戦い後に頼朝方に捕らえられて自害した。工藤祐経の弟の宇佐美祐茂が頼朝の挙兵当初から従い、富士川の戦いの戦功で本領を安堵されており、祐経は京から鎌倉へ下って頼朝に臣従し、祐茂を通して、伊東父子亡き後の伊東荘を取り戻したと考えられる。
工藤祐経は源頼朝に信任され、奥州征伐の功として、日向国の地頭職、陸奥国などに二十四ケ国の所領を賜った。しかし祐経は富士の巻き刈りで、成長した、伊東祐親の孫で、河津祐泰の子、曽我十郎・五郎兄弟に殺された、いわゆる「曽我の仇討」である。
この事件を機に、祐経の庶子祐時は、伊豆を去って奥州に下向した。八戸の松館村に着いた工藤一族は、工藤祐経が信仰していた弁財天を洞窟に安置したところ、ある日の夜に、「汝に有縁の地はここより北にあり」とお告げがあった。
しばらくすると、館鼻の漁師の長が祐時(大祐)のもとに来て、夢の中で竜神様のお告げがあったので迎えに来たと云う。そこで祐時は、二人の漁師に伴われ、館鼻の岬「日和山」に着き、海岸を見回したところ、眼下には大河があり、人々が住むにはまことに適した地に見えた。祐時は、この地の神聖な岩を「磐座」として弁財天を移し祀り、この地に移り住んだ
その子祐朝は津軽に住し、祐朝の弟祐光は三戸名久井に住し、その子孫は糠部郡に繁衍した。しかし、南北朝の動乱で衰退し、この地の工藤氏は八戸南部氏に吸収されたものと考えられる。
津軽に移った工藤一族は、現在の黒石市周辺に勢力を築いていたようだ。
元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡にさいし、北条氏の一族の安達高景、名越時如らは、所領のあった秋田に逃げ、土崎の湊城に立て籠ったが、在地の諸将は朝廷方につき、朝敵として対峙されたため、やむなく津軽平川の大光寺館に拠った。
これに対し黒石の工藤貞行らは朝廷方に付き、陸奧国司北畠顕家の命を受け、南部師行らの支援の下、元弘4年(1334)大光寺館を攻撃し逃れた石川館も落とした。
北条方は当時難攻不落といわれた持寄城に籠城したが、持寄城は山上に築かれた砦であったため、この年の異常気象には抗し得ず、11月、籠城の諸将も戦況の限界と、北条氏への恩顧に報いる努力を果し得たことを確認して、遂に砦に火を放ち、朝廷方の軍門に降ったと云う。
工藤貞行は、これらの功により、建武2年(1335)鼻和郡目谷郷、外ヶ浜野尻郷が恩賞として与えられた。しかし、貞行には嫡男がなくこれらの所領は嫡女であった加伊寿御前に譲られることになっていたが、八戸南部氏に嫁いでいた加伊寿御前と夫南部信政の間に男子が出生し、八戸南部氏7代信光を生んだ。 この貞行の遺領が、南部氏の津軽進出の拠点となった。