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竹子は、会津藩の江戸常詰勘定役の中野平内の長女として江戸藩邸で生まれた。幼少より聡明で、5~6歳の頃に小倉百人一首を暗誦して一字も誤ることがなかった。竹子は14~15歳で、経書や史書を修め詩文や和歌をたしなむまでになった。成長すると、薙刀術と短刀術を学び、薙刀は免許皆伝ほどの腕前であった。また書を習い、備中庭瀬藩の藩主夫人の祐筆を務めたこともあった。容姿端麗、男勝りの女丈夫として知られた。戊辰戦争が始まったために家族と共に会津に帰った。

竹子は、会津若松城下で、婦女子に学問や薙刀を教えた。慶応4年(1868)8月23日、新政府軍が会津坂下に侵攻した際、松平容保の義姉である照姫が会津坂下に立ち退いていることを耳にした中野竹子らは、照姫を護衛するために、母考子、妹優子らとともに、娘子隊を組織し、会津坂下に向かった。

結局、照姫を見つけることが出来ず、若松城へ入り損ねた。翌24日に、会津坂下にて行き合わせた萱野権兵衛に従軍を申し出たが、萱野は、「会津藩は力尽きて婦人までも戦わしめたと嘲られる」として参戦を断られたが、許されなければ自害するとの真心が受け入れられて、古屋佐久左衛門の衝鋒隊に加わることを許された。

戦闘の前夜、竹子と母考子は、15歳の妹優子がこれに加わるのは無理ではないかと話し合った。優子は同性すら見惚れるほどの美人で、敵に捕まって辱めを受ける恐れもあり、眠っている優子をそのままあの世へ送ってやろうということになり、優子を殺そうとした矢先、同隊の隊士が止めに入り、戦場で一緒に死のうということになったという。

8月25日、衝鋒隊は涙橋で新政府軍と交戦した。竹子は辞世の歌を短冊に書き、薙刀に結び付けて戦った。婦女隊は敵弾が飛び交う中で切り進むが、婦人がいると知った敵兵は「生け捕れ、生け捕れ」との声を上げた。竹子はそうはさせじと奮戦したが、銃弾を頭に受けて戦死した。首級を敵に与えることを潔しとしなかったので、竹子の母と優子は敵を薙ぎ払って駆け寄り、涙を振るって竹子を介錯し、彼女の首を回収した。首級は後に会津坂下町の法界寺に埋葬された。

辞世の句は
武士の 猛き心に 比ぶれば 数にも入らぬ わが身ながらも

娘子隊は、5名が生き残り、近くの村に一旦引き上げ、菅野権兵衛に諭され、2日後に城に入り、山本八重らと合流し、籠城軍として戦った。その後、鶴ヶ城では約1ヵ月に及ぶ籠城戦が戦われたが、新政府軍からは1日に2,500発もの弾丸を打ち込まれるなど総攻撃を受け、9月22日、ついに降伏、城を明け渡すことになった。

戦後、会津藩は斗南の地に移され、藩士らの多くは移住することになった。籠城戦を戦い生き残った中野優子も斗南に移住し、明治4年に山浦鉄四郎と結婚した。鉄四郎は、8月23日の籠城の日には、負傷の為、城中にあったが、天神橋口が手薄の為、負傷の身でありながら出撃し戦った。敵陣の中を走り抜け、西出丸より城に引揚げるなど活躍した人物である。戊辰後は、蒲生誠一郎と名前を変え、斗南で中野優子と結婚。函館に住み函館にて明治12年(1879)没した。優子は長生きし、昭和6年(1931)に79歳にて没した。墓は夫の蒲生誠一郎の実家がある八戸の地にある。