熊谷氏は、この本吉の地に下向した熊谷直家から四代目の直光、五代目の直時の時には、一族を各地に配し着実に勢力を広げていた。建武2年(1335)、多賀城国府の北畠顕家は、後醍醐天皇の命を奉じて奥州兵を率いて西上の軍を起こした。この軍には南部、伊達、白河氏らとともに石巻の葛西清貞、寺池の葛西高清も参加した。顕家軍は足利尊氏と戦ってこれを破り九州に追放して京都を回復した。
ところが建武3年(1336)、葛西高清は先に帰り、経緯は定かではないが、同じ南朝方の本吉郡馬篭氏を大軍を率いて襲撃した。馬籠氏は、気仙沼赤岩の熊谷氏と姻戚関係を結び歌津の地に勢力を張っていた。迎え撃つ馬籠勢は五百騎足らずだったが、妹婿の熊谷直光は一族郎党1千騎を引きつれて馬籠氏を助けた。しかし、兵力には圧倒的な差があり、葛西軍の猛攻の前に馬籠氏の多くは討ち死にし、馬籠氏は葛西氏に降伏した。
葛西軍は矛先を熊谷氏へと向けた。熊谷氏は本拠地である気仙郡赤岩城に籠り葛西軍を迎え撃った。激戦のなかに熊谷直時以下、家臣の多くも討ち死にしたが、難攻不落の赤岩城は落ちず、葛西軍は退却していった。しかしこの戦いの結果、熊谷氏の勢力は大きく後退し、本吉郡の多くは葛西高清が掌握することとなったが、直時の子の弾正忠直明は、敗戦のあとも赤岩城を守り、葛西家の大軍と度々戦いてその勢に屈しなかった。それでも貞治2年(1363)にいたり力尽き、ついに葛西氏の支配下に入った。
葛西氏の支配下にあっても、備中守直宗の代には、宇都宮氏討伐にも参陣し、戦功を重ねながら、旧来の勢力圏を回復していったようだ。この時期、唐桑や横山、中館や岩月への庶子家分立が伝えられている。
しかし、熊谷氏に内紛が生じた。これは、鎌倉以来の地頭であった熊谷氏の台頭を恐れる葛西氏が、それを揺さぶるべく内訌を起こさせたとも考えられる。結果的に熊谷氏の宗家の直景が弟の直光を先鋒とする葛西軍に討伐され、直景はじめ、一族の多くが討ち死にし、熊谷氏は衰退した。
以後、それぞれの時代にあって熊谷氏は葛西氏に属して活動している。しかし、葛西氏は豊臣秀吉の小田原征討に参陣せず、奥州仕置により所領没収、城地追放となった。葛西晴信は熊谷直長とともに葛西氏再興を願い、浅野長政らに対して折衝を行ったが、「大崎・葛西一揆」の勃発などもあって、結局、葛西氏の再興はならなかった。
その後、直長は津谷に引き蘢ったが、伊達政宗に召し出され、関ヶ原の合戦では白石城攻撃軍に参陣、子の直知は伊達氏に仕えて一千石を知行した。奥州仕置ののちの熊谷氏一族の対応は多岐にわたっており、大崎・葛西一揆に加担して仕置軍と戦って戦死した者、新領主の伊達家や隣国南部家に仕官した者、行方不明になった者などがいるが、一族の多くは本吉地方に残り帰農した者も多かったようで、気仙沼市は「全国で最も熊谷姓が多いまち」になっている。
江戸時代に入り世の中が落ち着くと、帰農した熊谷一族は、それぞれの地域で村役人として藩政に重用され、江戸時代から明治に至るまで肝煎、大肝煎、地方議員等の役割を担った家も少なくない。一族のそれぞれの館跡の八幡神社も、熊谷氏の氏神様から村の鎮守へと役割を変え、時代を超えて崇敬されていくことになる。
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