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大槻習斎の跡を受け養賢堂学頭になった大槻磐渓は 寛政13年(1801)、大槻玄沢の次男として生まれた。江戸の昌平黌に10年学び、林述斎や、京都の頼山陽からもその才を高く評価された。父玄沢は、オランダ語を、当時の学術用語である漢文体の文章に翻訳させるため、彼を漢学者として育てたとも伝えられる。一時は蘭学を目指し、藩に長崎遊学を願い出たが、当事長崎はシーボルト事件で騒然としており、その願いはかなわなかった。また、西洋砲術に興味を持ち、「文武両刀たらん」と砲術家の高島秋帆の門人江川英龍に入門し、その後学頭になった。

嘉永6年(1854)にペリーが浦賀に再来航すると、仙台藩の命を受けて浦和に出向きこれを見聞した。吉田松陰とも交流があったらしく、松陰は黒船に乗り込むための奇策を磐渓に相談したともいう。22歳の頃、仙台藩校の養賢堂に入り、指南役見習に抜擢された。磐渓は、西洋の技術を取り入れ富国強兵を目指す開国論だった。しかし、当時の世論は圧倒的に攘夷論が優勢であり周囲からは多くの非難を浴びた。仙台藩でも、討幕派と佐幕派の抗争があり、結局、藩主伊達慶邦は、開国を目指す佐幕派の意見を入れた。その後磐渓は、元治元年(1865)、養賢堂の学頭に就任し、その発言は仙台藩の執政に対しても大きな影響力を持つようになっていった。

この磐渓の教え子に、玉虫左太夫誼茂(よししげ)がいた。左太夫は、文政6年(1823)に、鷹匠組頭玉虫平蔵の末子として生まれた。左太夫は生まれて間もなく父を亡くし、窮乏をきわめ、仙台藩士の他家へ養子に入りその家の長女と結婚したが、この妻にもはやくに死に別れた。23歳の冬に意を決し、上京し、様々な職を得ながら勉学に励み、幕府の最高儒学者・林大学の塾に入り、塾長にまでのぼりつめた。安政3年(1857)、幕府の函館奉行に随行して、蝦夷地を踏査し、その地理や集落、風俗などを詳しく記録した『入北記』を著した。左太夫のこの記録は、詳細でかつ正確であり、左太夫のこの記録の才能は大いに評価され、また林家や幕府役人とのつながりもあり、37歳のとき、勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎らとともに、日米修好通商条約の批准書交換使節団に選ばれた。

左太夫は、この使節団に随行し、使節がハワイに立ち寄った際、中国人の商人からイギリス・フランスの中国侵略の話を聞き、「列強国は、虎や狼に等しく、日本人も気をつけた方が良い」と助言され、左太夫は、これを聞き、自分のなすべきことは「今次ノ航海、其事情ヲ探グルヲ以テ第一トス」と決心したという。左太夫は、アメリカの国会議事堂、博物館、造船所、病院、印刷所などを見学し、それを詳しく記録し、またさらに、その歴史や政治経済の諸制度までをも調べ、「航米日録」としてまとめた。その膨大な記録は、維新に入ってからも重用されたと云い、貴重な歴史資料として現在に残されている。いずれにしても、これで日本は通商条約批准書交換を終えて、日本の長い鎖国の歴史に幕を閉じた。

左太夫は帰国後大番士となり、のちに養賢堂指南統取となり、これらの体験を通じて、日本にとって近代化が必要なことを論じ、蒸気機械製造所を建設して水力と火力を利用し、物産の増産を図り、外国人を雇い技術を学ぶことの必要性を説いた。列強国からの植民地化を防ぐためには「富国強兵」策が急務であり、そのためには誰もが参加できる自由貿易が必要だと論じた。

この時期の養賢堂の学頭は大槻磐渓で、磐渓の考えもほぼ同様なものであり、ただ、アヘン戦争などで評判の悪いイギリスやアメリカとではなく、当時、比較的親日的に貿易を求めていたロシアと接近し、貿易を通じ日本の国力を高めると云う、いわば親露開国だった。

また、東北の諸藩は、この以前から幕府から蝦夷地警備を命じられ、たびたび蝦夷地に兵を出していた。嘉永6年(1854)、幕府は日米和親条約を締結し、実質的に開国の道を選び、ロシアとは、択捉、ウルップ両島の間を両国の国境とし、樺太を両国雑居の地と定めた。このため、ロシア勢力の南下が予想されたことから、幕府は仙台、秋田、南部、津軽の諸藩に対して蝦夷地の分担警備を命じた。

仙台藩は、東蝦夷地の白老から知床岬まで一帯の地と択捉、国後の島々を持ち場とし、白老に陣屋をおいた。しかしこの蝦夷地進出には莫大な費用がかかり、仙台藩では、長期にわたって警備を続けるために東蝦夷地一帯を領地として与えるよう幕府に願い出、安政5年(1859)に許可された。

仙台藩は、遠い京都での薩摩や長州による尊王攘夷の動きや倒幕の運動は、現実的な意味で列強諸国に対することができるものとは考えていなかったと思われる。藩財政が逼迫していた仙台藩にとっては、むしろ、蝦夷地を開拓し、ロシアと貿易を行い、近代化を進めることが急務と考えていたと思われる。

この困難な幕末時期に、但木土佐成行(なりゆき)は仙台藩の筆頭家老として仙台藩の舵取りを行った。但木土佐は仙台藩の重臣の家系で、戊辰の危機に当たり奉行に挙げられ、国政を執行し、軍事を総官した。当時の仙台藩の財政は最悪の状態で、但木土佐は、文久元年(1862)には、10万石の分限で表高62万石の仙台藩を運営することを宣言し、緊縮財政を断行した。この緊縮財政に加えて殖産興業政策によって藩財政建て直しをはかり、以後、藩主の信任を得て仙台藩幕末維新期の政局を担っていった。

但木土佐もまた、左太夫と同じく、養賢堂で大槻磐渓の薫陶を受けていた。破綻した仙台藩の財政では、藩の尊王攘夷派が主張するような、藩主自らが上洛して中央で活動できる、そのような状態ではなかった。また但木土佐の考えは、大槻磐渓の考える「開国」「富国強兵」と同様のものであり、そしてそれは、徳川幕府を改革し、穏健に進められるべきとの考えだったようだ。実際に列強諸国をつぶさに観察してきた左太夫の客観的な話は、その裏づけともなっていた。

当時の状況は、客観的に考えれば、「開国」は動かすことができない時代の流れであり、日本を、列強諸国の植民地化から守るためには、欧米の文明を早く取り入れ、「富国強兵」策をとりいれるしかなかったことは、その後の歴史が証明している。しかしこの時代は、客観的な冷静な理念ではなく、尊皇攘夷の激情の中で動いていた。その激情が、日本を最初の内戦へと引き込んでいくことになる。