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清と朝鮮以外の関係各国には、朝鮮情勢の安定化案がいくつかあった。多国間で朝鮮の中立を管理、一国による朝鮮の単独保護、複数国による朝鮮の共同保護である。しかしロシアの南下政策を警戒するイギリスは、日清どちらかによる朝鮮の単独保護ないし共同保護を期待していた。しかしその意に反し、ロシアと朝鮮は次第に接近していった。

日清戦争後、清国は朝鮮の宗主国としての立場を失い、朝鮮は独立国となった。甲午農民戦争を率いた徐載弼と李完用らは、朝鮮における立憲君主制導入を目指し、独立協会を創設し、独立新聞を発行し、開化思想を民衆に啓蒙した。また日本が勝利し、清に朝鮮の独立を認めさせたのを祝い、屈辱の迎恩門の地に、独立門を建設した。

独立協会は、ロシア公使館に逃げていた高宗に対し、王宮に戻ることを進言した。高宗は王宮に戻り、朝鮮初の皇帝に即位し、国号を大韓帝国と改め、李氏朝鮮の自主独立を世界に宣言した。しかし、大韓帝国成立後、高宗は絶対王政を維持しようと、保守勢力と結び、独立協会を弾圧し、1898年にはこれを強制的に解散させた。

その後ロシアは、三国干渉によって、1898年、清国と旅順港、大連湾租借に関する条約を結び、不凍港が手に入ることになると、韓国への関心が失われ、韓国から全てのロシアの軍事、民事アドバイザーが撤退した。しかし親露派の高宗は、ロシアに鍾城や慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を売り払い、多くの権益がロシアにわたっていた。

また、開化派の金弘集などは殺され、議会政治への道も閉ざされ、民衆は高宗の親露政策に対しても反発の動きを見せた。これらのことから、アメリカ公使のホレイスアレンは「朝鮮人は外国勢力とそのアドバイスに学ばなければならない」として、韓国の統治能力に疑問を持ちはじめ、その状態は「ロシアの影響が完全に撤退されて以降、ますますひどくなった」と述べている。

皇帝になってからも高宗の周辺は安定せず、1898年7月には皇帝譲位計画がおき、9月には高宗、皇太子暗殺未遂事件が起こった。高宗は、光武改革という近代化政策を推し進めるが、財源の一元化の失敗、脆弱な財政基盤を強化するための増税が民衆反乱を招き、改革は頓挫してしまう。

一方、ロシアと日本は、満州と朝鮮を挟み対立は深刻化していた。地政学的に、大韓帝国がロシアによって飲み込まれるような事態になれば、日本の安全保障が脅かされることから、対朝鮮政策を強化していった。1904年2月、大韓帝国における軍事行動を可能にするために日韓議定書を締結した。そして清国での義和団事件をきっかけにして、ついに日露戦争が始まった。

開戦後の8月には、大韓帝国とロシアが結ぶことを牽制し、第一次日韓協約を締結し、大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。この時期の大韓帝国は、これまでの事大の相手が、清からロシアに移っただけで、李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では、独自改革が難しいと判断した進歩会は、日韓合邦を目指そうと鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。

戦局は日本優位に進み、日本は1905年4月に韓国保護権確立を閣議決定した。また7月には、アメリカとの間で、アメリカのフィリピンでの権益を認める代わりに朝鮮での権益を認めさせ、8月には第2回日英同盟を締結し、ロシアの南下に対抗する拠点として朝鮮支配の確約を得た。これらの動きの中で高宗は、大韓帝国をロシアの保護下に置くための密使を派遣したが、日本は高宗の密使を発見し、高宗の条約違反という弱みを握ることとなった。

また、1907年6月には、第2回万国平和会議が行われるハーグに、秘密裏に特使を派遣したが、既に日本の権益を認めていた列強からは相手にされなかった。この事件により、日本の意を受けた李完用などの勢力は、高宗の皇帝退位へと動き、7月純宗へ譲位し退位した。

日露戦争は、日本が勝利し、列強の支持を取り付けた日本は、11月、第二次日韓協約を締結し、韓国の外交権を剥奪し、日本の保護国とした。承政院日記には、高宗が保護条約反対派の大臣をなだめる記述が残っている。