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近代化を推し進める閔妃派と、鎖国、攘夷を訴える大院君派の対立は一層深刻なものになっていった。しかし、閔妃の開国は、朝鮮国民の為の近代化ではなく、閔妃一族の栄達をはかる為のもので、国家有為の人物よりも、大院君排除に必要な策士を網羅するようなものだった。両班の特権を復活させ、大院君派を根こそぎ追放、流刑、死刑にした。

この当時の閔妃は巫堂ノリという呪術儀式に熱中し、国庫の6倍以上にあたる金額を布施により浪費した。これは法外な額であり、宮廷の役人は民衆から搾取して、競って閔妃に賄賂を贈っていた。また庶民が苦しい生活をしている中、毎晩遅くまで、俳優や歌手を宮中に招いて遊興しており、起床はいつも午後で、そのため宮中の空気は「混濁腐敗」していたとも言われる。

開化派は、日本から顧問を呼び寄せ、軍隊の近代化に着手したが、従来の軍隊は新式軍隊に対する不満をつのらせていた。大院君はこの勢力と結び、1882年、閔妃暗殺を目論んだ。その際多くの閔妃派要人や日本人が殺され、日本大使館は焼き討ちにされた。閔妃は、かろうじて脱出し、朝鮮国内に駐屯していた清の袁世凱の力を借りて窮地を脱した。この事件以来、閔妃は親日的な政策から、次第に清に頼る事大主義に路線変更していった。また、その後、不凍港を求め南下するロシアとも結び親露政策もとりはじめた。

当時の日本では、アジア諸国を植民地に組み込んでいく欧米列強の脅威の排除と、アジアとの連帯を目指し、開国文明化、協同、合邦、新秩序構築が唱えられていた。開化派の金玉均は、アジアで最も早く近代化に着手した日本に学び、福沢諭吉らとともに朝鮮や清の近代化を目指した。しかし金玉均らは、閔妃を追放しない限り、朝鮮の近代化は実現しないと考え、1884年、甲申政変を起こした。閔妃は一時追放されたが、袁世凱率いる清軍の力により3日で政権を取り戻した。その後、金玉均は、上海で閔妃の刺客により暗殺され、遺体をも凌辱する李氏朝鮮での最も重い刑罰の「凌遅刑」とされ、その遺体はバラバラにされ、朝鮮各地にさらされた。

この朝鮮の後進性に衝撃を受けた福澤諭吉は「脱亜論」で、「不幸なるは近隣に国あり」として、自身で国の変革ができない「悪友」の清国と朝鮮にこれ以上関わることは、日本の外交にも支障が出るとし、「我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と述べている。日本における「アジア主義」は、これ以降、清国や朝鮮が、自力で近代化を行うことには期待せず、日本が主導し、アジアの革命勢力を支援する思想へと変化し、やがて「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」構想へとつながっていく。

閔氏政権は、甲申政変のような問題が起きると、日本や清国やロシアなどの大国の対立を利用し一時的に収拾するだけで、根本的な問題を自らの手で改革できずにいた。このつけは全て民衆に振り向けられ、民衆の不満は高まり、1883年から各地で農民の蜂起が起きていた。そのような中、1894年春、東学党の二代目教祖の崔時亨が武力蜂起し、反乱軍は全琫準という知将を得て、5月には全羅道一帯を支配下に置いた。

これに驚いた閔氏政権は、清国に援軍を要請し、甲申政変後の天津条約にもとづき、日本も公使館警護と在留邦人保護のために派兵し、漢城近郊に布陣して清国軍と対峙することになった。この状況に慌てた閔氏政権は、農民の提案を基に全州和約を作成締結し、この和約により、全羅道に農民権力による自治が確立した。しかし結局これも、その場しのぎのものでしかなかった。