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岩木山北麓にある巌鬼山神社は、延暦15年(796)、岩木山北麓に巌鬼山西方寺観音院が建立されたことに始まり、大同2年(807)坂上田村麻呂の蝦夷平定祈願のため再建されたと伝えられる。

津軽の地には、「鬼」にまつわる伝説が多くあるが、この地にもそれに類する伝説が伝えられている。この地の伝説上の「鬼」は、この地域の方々にとっては、必ずしも恐ろしいものだけではなく、人々を助けて働き、時には一緒に遊ぶこともある、やさしい心と大きな力を持った頼れる兄貴のようなものでもある。それでもまた、坂上田村麻呂征夷伝説とも結びついていることも多く、この地の蝦夷に関わるものでもあるようだ。

津軽平野には、全国的にも珍しい「鳥居の鬼コ」が鎮座している神社がみられる。鬼コは、色も形も表情も個性豊かで、両肩で鳥居を支えながら、災いが集落に入り込まないようにしっかりと睨みをきかせている。また、鬼沢の鬼神社には、角のない鬼が祀られている。

岩木山神社の元社といわれる巌鬼山神社に伝えられる鬼伝説も、もとは岩木山をご神体としての手長足長伝説のようなものだったのが、歴史の流れの中で変化してきたものと思われる。巌鬼山神社に伝えられる鬼伝説は次のようなものである。

鰺ヶ沢から弘前へ向う途中、湯舟という村に腕の良い刀鍛冶が住んでいた。刀鍛冶には二人の美しい娘がおり、その評判は弘前にまで伝わっていた。姉妹も年頃となり、刀鍛冶は「七日のうちに目にかなう十腰の刀を打ち上げた者を婿とする」と触れた。するとある日、左頬に大きな火傷の痕のある若者が現われ志願し、その若者は、絶対に鍛冶場をのぞくなと言い、刀を打ち始めた。

気になった刀鍛冶が鍛冶場をのぞくと、一匹の竜が口から炎を吹き付けながら刀を鍛えていた。刀鍛冶は驚くと同時に困り、竜の若者が疲れて寝ている隙に、刀の束から一腰を抜いて隠した。期日が来て若者が刀の束を差し出すが、数えると九腰しかない。約束を果たせなかった若者は、「十腰ない、十腰ない」とつぶやきながら村を去った。 このことから「十腰内」の地名が残ったと言う。後難を恐れた刀鍛冶は隠していた刀を湯舟川へ捨てた。しかし、翌日から姉娘は高熱を発し、息を引き取ってしまった。後難を恐れた湯舟の村人たちはこの竜蛇を祀ったのが「湯船観音」という。

三年がたち、妹のもとへ一人の若者がやって来て、七日のうちに十腰の刀を見事に鍛え婿となった。刀鍛冶が姉の時の事を話すと、若者はその竜は自分の兄の鬼神太夫に違いないと言う。兄は竜神に祈願し、やがて竜神が乗り移ったのか魔剣を鍛えるようになったという。

鬼神太夫の残した九腰の刀は巌鬼山神社に奉納されたが、いつの間にか七腰がなくなり、いまは二腰だけが伝わるという。

みちのくで「鬼」といえば、そのモチーフは蝦夷であることが多いのだが、この伝説の中の「鬼」である鬼神太夫のモチーフは、蝦夷ではなく、ヤマト人と考えられることだ。この巌鬼山神社は、坂上田村麻呂の蝦夷平定祈願のため再建されたと伝えられてはいるが、史実からすると、田村麻呂は、現在の盛岡市以北には至っていないとされる。田村麻呂は、胆沢地方で蝦夷の首長アテルイを滅ぼした翌年の延暦22年(803)に志波城を造営し、またその後、現在の矢巾町徳田に、徳丹城を造営し、蝦夷制圧は終了し、その後は、蝦夷の慰撫と同化に努めるようになった。

この地の鬼神太夫の伝説は、津軽の地に製鉄の技術を持ったヤマト人が入ってきたことに関わるのではと考えられる。当時の製鉄技術の広がりは、大和朝廷の勢力の北上と一致する。岩手県内では胆沢城造営以降の9世紀頃に鉄生産が始まったと考えられ、志波城では鍛冶に関わる炉体が発見されており、以降鉄器の保有数が急激に増加する。

秋田、青森地方では米代川流域と、津軽の岩木山山麓を中心にした地域に古代の製鉄遺跡が発見されている。これらの遺跡群は、10~11世紀の遺跡であり、律令制度の崩壊と在地軍事豪族の台頭から、豪族のもとでの生産だったと考えられる。