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慶応4年(1868)7月16日、兵の大半が白河口に出向いている隙をつき西軍は二本松城を攻撃、城は落城した。

二本松領を占領した西軍では、次の攻撃目標に関して意見が分かれた。大村益次郎は仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助と伊地知正治は、会津への攻撃を主張した。結局、板垣・伊地知の意見が通り会津を攻撃することとなった。

会津へ入るには何ヶ所かの街道があるが、会津藩は日光口の会津西街道、白河口の勢至堂峠、さらに二本松と若松を最短で結び、当時の主要街道であった二本松口の中山峠を厳重に固めていた。中でも西軍は中山峠に殺到すると予測し、特に厳重に防備を固めていた。

しかし西軍はその裏をかき、この母成峠に主力3000を進め、中山峠には陽動部隊を派遣した。母成峠には、大鳥圭介率いる旧幕府陸軍の精鋭の伝習隊が布陣しており、その他、仙台藩兵、二本松藩兵、新撰組ら800ほど が守っていた。

8月20日に坂下で前哨戦が行われ、伝習隊が奮戦し、西軍の進撃を食い止めたが損害は大きかった。翌日、濃霧の中、西軍3000は、本隊と右翼隊に分かれて母成峠を目指した。西軍は薩摩藩兵と土佐藩兵を主力とする精鋭だった。

戦いは早朝に始まり、東軍は兵力を縦深陣地に配備し、洋式訓練を受けた伝習隊は善戦したが、 会津勢は西軍の側面攻撃を受け支えきれず敗走し始めた。伝習隊は殿となり奮戦したが大きな被害を受けた。夕方頃にはほぼ勝敗は決し、母成峠は西軍が制し、東軍は退却した。

西軍はこれを急追、木地小屋部落で一夜をすごすと、翌22日には怒濤の勢いで猪苗代に向けて進撃を開始した。猪苗代には、会津の出城の猪苗代城があり、また会津松平藩祖の保科正之を祀る土津神社がある。当然熾烈な戦闘があるものと考えられたが、猪苗代勢は全軍を挙げて母成峠の守備に当たっており、壊滅的な打撃を受けて、城を守るに兵がなく、会津勢は猪苗代城と土津神社に火をかけ退却していた。

猪苗代湖の北側には、天険の要衝十六橋があった。十六橋は 、猪苗代湖から流れ出る日橋川にかかり、旧若松街道はここを通っていた。薩摩の四番隊は、会津兵が十六橋を破壊する前にこれを確保するため、午後2時頃には再び進撃を開始した。若松の城下に入るにはこの橋を渡らなければならなかったが、もしこの橋を会津勢に破壊されれば、水量の多いこの川は容易に渡れるものではなかった。

会津勢がこの橋を破壊しようとしている所に薩摩四番隊が到着し、すぐさま戦闘が始まった。薩摩勢は会津勢に優勢な火力を浴びせ、次々に橋を渡った。会津勢は支えきれず、午後3時頃にはこの天険を放棄するに至った。

十六橋が敵の手に陥るの報は、忽ち若松城に飛んだ。会津軍の大半は国境方面に出陣しており、城内は手薄であったが、若松城下侵入を阻止するべく、急遽、敢死隊、奇勝隊700余名が派遣され、十六橋の南岸の戸ノ口原一帯に防御線を布くと同時に、藩主容保みずからも若松郊外の滝沢へと本陣を進めた。そしてこのとき藩主を護衛していた士中白虎二番隊の少年達にも戸ノ口原への出動命令が下され、その後の白虎隊の悲劇へとつながっていく。