李氏朝鮮は、1392年に、高麗の武将だった李成桂が、明の力を背景とし、クーデターにより高麗王を廃し、明から朝鮮国王代理に封ぜられ成立した。その成り立ちから、明に臣従するもので、1401年から正式に朝鮮国となり、明の朝貢国として、冊封体制に組み込まれた。
明の力が衰退し、後に清となる、後金が勃興し始めると、当初は、明と清との二極外交を行っていた。しかし、朝鮮には新興国の後金を侮蔑するものも多く、明への傾斜を強くした。しかしこの政策は裏目に出て、1627年、後金は3万の兵力で朝鮮に侵入、朝鮮側は敗北を重ね、結局、後金を兄、朝鮮を弟とする条件を呑み講和した。
講和が成立し、後金が朝鮮から撤収すると、朝鮮は国防対策を見直し、オランダから大砲を導入するなど防衛力を強化した。1636年、後金は清と国号を変更し、朝鮮に対して清への服従と朝貢、及び、明へ派遣する兵3万を要求してきた。しかし軍事力を強化していた朝鮮はこの要求を拒否した。このため清は、皇帝ホンタイジおのずからが12万の兵力を率いて再度朝鮮に侵入した。朝鮮は抵抗を試みたものの、わずか40日余で降伏した。
朝鮮王の仁祖は、清軍陣営に出向き、清に対する降伏の礼を行わされた。仁祖は朝鮮王の正服から平民の着る粗末な衣服に着替え、受降壇の最上段に座る、清のホンタイジに向かい、最下壇から三度跪き、九度頭を地にこすりつける三跪九叩頭の礼により臣下の礼を行い、許しを乞うたという。ホンタイジは、自身の「とく」と仁祖の「過ち」、そして両者の盟約を示す碑文を満州語、モンゴル語、漢語で石碑に刻ませ、1639年に降伏の地に建立させた。これが「大清皇帝功徳碑」である。
また、ソウル郊外の北京に至る街道筋には、明代に、中国の勅使を迎えるための「迎恩門」が建てられていた。中国の皇帝の臣下であり、冊封国であった朝鮮歴代の王は、勅使が来るたびに、この門まで出迎え、三跪九叩頭の礼を取ったとされ、それは清になってからも変わることはなかった。
李氏朝鮮は、その始まりから、日清戦争で日本が勝利し、1895年の下関条約で、清の冊封体制から李氏朝鮮が離脱するまでのおよそ500年の長きにわたり、冊封体制のもと朝鮮半島を支配した。それは、明や清の臣下として従属することで得られた、与えられた王権であり、「長いものには巻かれろ」「強き者にはへりくだり、弱きものには強圧的に」といった事大主義の成果ともいえる。
この事大主義は、内政面にも表れ、明人であればたとえ海賊であったとしても処刑することは出来ず、明へ丁重に輸送しなければならなかった。倭寇と対峙した地方の武将達は、戦闘のさ中に日本人と明人の判別をつけるという難題に晒され、明人を殺害したとして処罰される者すら存在した。
李氏朝鮮は、中国への卑屈な服従関係と、その屈辱を覆い隠す名分として、中国を中心とし、それに属する朝鮮は中華文明の中にある「先進国」として、日本などさらに周囲の中華文明の外にある国々を蔑んだ。これは「慕華思想」と呼ばれていたが、その後、清は日清戦争に敗れ、列強諸国に蚕食され崩壊していく中で、民族としての誇りを失った李氏朝鮮の末路は、亡国しかなかった。