熊谷氏は、桓武平氏北条直方の後裔を称し熊谷直貞がはじめて武蔵国熊谷を領し、熊谷と称したことに始まる。
源平合戦で功を上げ、源頼朝をして「日本一の剛の者」と言わしめた熊谷次郎直実は、現在の埼玉県熊谷市に生まれ、幼名を弓矢丸といった。その名のとおり弓の名手であったという。幼い時に父を失い、母方の伯父の久下直光に養われた。
保元元年(1156)の保元の乱では源義朝に従い戦い、平治元年(1159)の平治の乱では、源義平に従った。その後、直実は久下直光の代理人として京都に上ったが、久下氏の郎党としての扱いだったことに不満を持ち、直光の元を去り平知盛に仕えた。
源頼朝挙兵の直前は、大庭景親に従って東国に下り、治承4年(1180)の石橋山の戦いでは平家側に属していたが、以後、頼朝に臣従して御家人の一人となり、常陸国の佐竹氏征伐で大功を立て、熊谷郷の支配権を安堵された。
寿永3年(1184)の一ノ谷の戦いに参陣。この戦いでは源義経の奇襲部隊に所属。鵯越を逆落としに下り、息子・直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りしたが、平家の武者に囲まれ、先陣を争った同僚の平山季重ともども討死しかけている。
この戦いで、良き敵を探し求めていた直実は、波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を見つけ、「敵に後ろをお見せになるのか、」と大音声で呼び止めて一騎討ちを挑んだ。直実がむずと組んで若武者を馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子・直家ぐらいの年齢の少年だった。直実が「武蔵国住人、熊谷次郎直実」と名乗ると、敦盛は「首を取って誰かに尋ねてみよ。きっと知っている者がいるだろう」と答えた。
これを聞いて直実は、名の知れた立派な若武者なのだろうと感動し、一瞬この少年を逃がそうとしたが、背後に味方の手勢が迫ってきており、たとえ自分が少年を逃がしたとしても、どのみち生き延びることはできないだろうと考えた直実は「同じことならこの直実が手にかけ、死後のご供養をいたしましょう、」と言って、泣く泣くその首を斬った。
その後、首実検をすると、この公達は清盛の甥の平敦盛と判明、齢は17歳だった。討ち死にの折に帯びていた笛「小枝」は、笛の名手として知られた敦盛の祖父の忠盛が鳥羽上皇から賜った名笛だった。これ以後直実には深く思うところがあり、出家への思いを抱くようになった。
敦盛を討った直実は、出家を考えたがその方法も知らず、法然の弟子に法然との面談を求めた。「後生」について真剣に尋ねる直実に対して、法然は、「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、」と応えたという。その言葉を聞き、出家するのに、切腹するか、手足の一本も切り落とそうと思っていた直実は、号泣したという。
文治3年(1187)、直実は鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬の「的立役」を命ぜられた。弓の名手を自負していた直実は、これを不服として拒否したため、所領の一部を没収された。
また、建久3年(1192)、過去の経緯から不仲だった久下直光との境界争いで、頼朝の面前で、両者の口頭弁論が行われることになった。直実は武勇には優れていても口べたで、頼朝の質問に上手く答えることが出来ず、直実は憤怒して「梶原景時めが直光をひいきにして、よい事ばかりお耳に入れているらしく、直実の敗訴は決まっているのも同然だ。この上は何を申し上げても無駄なこと」と怒鳴りだし、証拠書類を投げ捨てて座を立つと、刀を抜いて髻を切り、私宅にも帰らず逐電してしまったという。直実は、この時期に法然の弟子となり、法力房蓮生と称した。
直実の嫡男直家は、文治5年(1189)奥州合戦に参加し、その功により本良庄の地頭職に補任された。その子直宗は、赤岩城を中心に気仙沼地方に勢力を伸張し、やがて本吉郡北方に支配権を拡大した。
赤岩城は、標高347mの鍋越山から南に伸びる尾根の先端部にあり、尾根の先端部は独立丘状になっており、ほぼ四方を急斜面及び急崖に囲まれている。城の南側は急斜面で、その下は当時は一面の湿地帯だったと思われる。東側は急崖、西側、北側は急斜面になっている。大手口は西側と思われ、山腹を縫うように上り、途中から切通しを真っ直ぐ上ることになる。北側、南側には張り出した尾根があり、尾根上には郭があったと考えられる。
上りつめると小さな窪地があり、正面東側に三の郭、北側、南側の腰郭が配されており、この窪地は虎口と思われる。正面の三の郭から南に二の郭、本郭と続き、さらに最高部の本郭から南に下がり二段程の郭が形成されていたようだ。本郭平場に段丘上の小さな高台があり、ここに祠とケヤキの古木がある。
この赤岩城は難攻不落の名城で、熊谷氏はこの城を拠点とし、葛西氏と、本吉地方の覇権をめぐり争うことになる。
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