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青森市のかつての青函連絡船青森桟橋近辺は、近年観光施設として再開発され、ベイブリッジの南側に「ねぶたの家・ワラッセ」が開設された。この施設は、青森を訪れる観光客のために、夏の「ねぶた祭」をいつでも体感できるような施設で、館内には、常時ねぶた囃子が流れ、火を入れた大型人形ねぶたの前で、数人の跳人たちが踊りを演じている。

もちろん、これは観光客にとってありがたいのだが、かつて、街中を踊り、練り歩くねぶた祭りを実際に見たものとしてはなんとも物足りなく思うのは当然だろう。できれば、多くの方々が津軽の地の夏祭りのエネルギーを実感してほしいものだ。

青森県の津軽地方を中心として、各所でねぶた祭が行われる。このねぶた祭りの始まりについては様々に伝えられるが、最も信頼できるような説は、民俗行事としての「ねむり流し」がある。

昔の人々は、健康に悪影響を及ぼし仕事の能率を下げる睡眠不足は忌むべきものとして、昼間の睡魔を穢れの一種と考えて、これを祓い清める行事が行われていたという。それが「眠り流し」といい、日本全国で行われていた。

眠り流しは七夕の行事の一つとして行われ、暑い季節の行事のため、水浴びをしたり、灯籠や船に形代を乗せて海や川に流すのが、眠り流しの一般的なスタイルだった。「眠り流し」は、眠気覚ましの祭りであり、この眠り流しは青森県内では姿を変え、ねぶた祭になったようだ。

津軽には、藩政時代以前から、七夕の時期に、子供たちが2mから3mくらいのサオに、「七夕」と書いた灯篭をつるし、上には小ザサやススキを束ねて,「ねぶたコ流れろ,まめのはさとっぱれ(眠気よ流れてしまえ、マメの葉に乗った睡魔よ去ってしまえ)」とはやしたて、これを大人たちが笛や太鼓ではやし村を練り歩く行事があった。

今日一般に使われているネブタ(侫武多)の文字が記録上にあらわれたのは明治5年(1872)で、それまでは「ねふた」「弥むた」「ねぷた」「子ムタ」「ネムタ流し」など23種類もある。津軽弁で「眠い」ということを「ねんぶて」というが,これが訛って「ねぶた」というようになったものと考えられる。

しかし、津軽の「ねぶた」が、勇壮な祭りに変化していく中で、弘前市の熊野奥照神社に伝えられる、坂上田村麻呂の蝦夷征討と結びついた伝説が広まった。

熊野奥照神社は、延暦7年(788)弘前の扇野庄に遷座され、大同2年(807)に、坂上田村麻呂が蝦夷征討にあたって祈願した神社であるとされる。

平安時代の中期、延暦年間(782~806)頃、朝廷の命令に従わない奥州の蝦夷を、征夷大将軍の坂上田村麻呂が討伐にやってきた。田村麻呂は、強大な武力を示して、鎮圧、降伏させようとしたが、蝦夷たちは隠れて出てこなかった。

この時、地理的に不案内のこの地で、このままでは勝負が長引くと考えた田村麻呂は一計を案じ、数万のタイマツに火をつけ,大きな灯篭を作り,太鼓や笛、鐘などを鳴らし、蝦夷たちをおびきよせようとした。この派手な楽器や灯篭に、数里四方から蝦夷たちがゾロゾロと集まり、たちまちのうちに捕まえられてしまったという。

青森にも坂上田村麻呂伝説は多く伝えられているが、史実からすると、田村麻呂は、現在の盛岡市以北には至っていないとされる。田村麻呂は、胆沢地方で蝦夷の首長アテルイを滅ぼした翌年の延暦22年(803)に志波城を造営し、またその後、現在の矢巾町徳田に、徳丹城を造営し、蝦夷制圧は終了し、その後は、蝦夷の慰撫と同化に努めるようになった。

熊野奥照神社に伝えられるねぶたの伝説は、もしかすると、大和朝廷の蝦夷を慰撫、同化させるためのものだったのかもしれない。

また、津軽為信によるものとする伝説もある。

文禄2年(1593)津軽為信が、京都に逗留していた時、7月のうら盆のお国自慢に、重臣の服部康成に命じ、奇想天外な大灯篭を作らせ、京の町を練り歩かせた。これは「津軽の大灯篭」として、日ごろ、田舎ざむらいとそしられていたものが、大いに面目をほどこしたという。

その後、城下町で初めてネプタを出した記録は正徳3年(1713)で,「ねふた」といった。それに亨保7年(1722)には,弘前の親方町,鍛冶町,土手町,元寺町,和徳町,紺屋町などからネプタが合同運行されている。それ以来ネプタは弘前名物となり,弘前の他に県内各地で運行されるようになったという。