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鎌倉幕府滅亡時の葛西太守は葛西清貞だった。建武の新政が始まると、多賀国府には義良親王を奉じて北畠顕家が入部してきた。清貞はいち早く国府に伺候して所領の安堵を得た。このとき、寺池は高清に分与したようだ。

建武2年(1335)の暮れ、北畠顕家は奥州勢を率いて多賀城を出発して西征の途についた。この軍には、葛西氏も加わり、京都に攻め上った奥州軍は尊氏軍を九州へ追い払い、京都を制圧することに成功した。その後、寺池の葛西高清は、一足早く戻り、翌建武3年、本吉・気仙両郡への進出を図り、本吉の馬籠氏を襲撃した。

馬籠氏は気仙沼赤岩城の熊谷直時に救援を求め、高清軍を迎え撃ったが、戦いは多勢を率いた高清方の勝利となり、本吉は高清が掌握するところとなり、熊谷氏はその後も頑強に葛西氏に抵抗したが結局熊谷氏は敗れ気仙沼も寺池葛西氏が支配するようになった。

この葛西高清の本吉・気仙侵攻は、南北朝争乱とは直接関係はなく、寺池葛西氏の勢力拡大の意図によるものと思われる。寺池葛西氏はこれ以降南朝から離脱した。

それに対して、石巻葛西の葛西清貞は、その後も南朝の雄として北畠顕家に従った。その後、奥州は北朝方が優勢となり、北畠顕家は多賀城から伊達郡の霊山に移った。そして、建武4年(1336)、ふたたび西征の途についた際にも、石巻葛西の清貞はこれに加わった。

しかし延元3年(1338)、西上した奥州軍は敗北し、和泉国石津の戦いで北畠顕家をはじめ多くの諸将士が戦死した。顕家が討死したあと、奥州の武士たちの多くは北朝方探題の石塔氏に従うようになった。

康永元年(1342)の秋、北畠顕家にかわり奥州に入った北畠顕信は、南部政長らの北奥の南朝勢力が、多賀国府を奪回するために行動を開始し、斯波・和賀・稗貫らの北朝方の諸将を蹴散らして、石巻の葛西氏の勢力と合流し、栗原郡に進出した。そして、南朝勢は三迫において北朝勢と激突し、南朝勢は惨敗を喫した。

その後、吉良貞家、畠山国氏らが新たに奥州管領に任命されて奥州に下向し、北朝勢力はさらに強力の度合いを深めたが、観応2年(1351)、尊氏・直義兄弟の不和から「観応の擾乱」が起こった。この足利勢の分裂を突き、南朝勢は京都、鎌倉を占拠し、奥州でも、北畠顕信が率いる南朝勢は多賀国府を奪取した。しかし、擾乱が尊氏の勝利に終わると、奥州の南朝勢力は次第に衰退の一途をたどることになり、挽回の機会が訪れることはなかった。

石巻葛西氏は、最後まで南朝方として活躍したためもあり、石巻市やその周辺には「吉野先帝菩提碑」などの南朝にまつわる史跡や伝説が散在する。

葛西清貞は観応元年(1351)に死去したとされる。これを機として葛西氏の総領権は、足利尊氏の下で北朝方となっていた寺池葛西の葛西高清の子孫が受け継ぎ、戦国時代末期まで葛西太守を受け継いでいく。