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輪王寺宮は孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たり、慶応3年(1867)5月、江戸に下って上野の寛永寺に入り、寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承した。歴代門主と同じく「輪王寺宮」と通称された。

慶応4年(明治元年、1868)1月に戊辰戦争が始まり鳥羽・伏見の戦いの後、輪王寺宮は前将軍徳川慶喜の依頼を受けて、3月7日に東征大総督・有栖川宮熾仁親王を駿府城に訪ね、新政府に慶喜の助命と東征中止の嘆願を行った。しかし、助命については条件を示されたものの、東征中止は一蹴されたため13日には寛永寺へ戻った。

父や有栖川宮からは京都へ帰還を勧められるも拒絶した。彰義隊が寛永寺に立て篭もった時には、有栖川宮は、輪王寺宮が戦いに巻き込まれないよう、開城された江戸城に招いているが、この使いには病であると称して会わなかった。5月15日に上野戦争が発生したが、彰義隊は敗北、輪王寺宮は寛永寺を脱出、25日に羽田沖の榎本武揚率いる艦隊で東北に逃避、平潟に到着。そこからは、側近とともに会津、米沢を経て仙台藩に身を寄せ、7月12日に白石城へ入り奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。

輪王寺宮は、「会稽の恥辱を雪ぎ、速に仏敵朝敵退治せんと欲す」と述べており、薩長を中心とした西軍を「仏敵朝敵」として強い反感を持っていた。奥羽越列藩同盟側は輪王寺宮に対し、同盟の総裁への就任を要請した。輪王寺宮は「君側の奸」を除くことに同意し、同盟の盟主となることに同意し、7月12日には白石城に入り、列藩会議に出席し、盟主としての立場を公にし、以後降伏まで、白石城と仙台を行き来している。仙台では青葉区の天台宗仙岳院を仮御所とした。

鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩・長州は岩倉具視らの画策で官軍として錦の御旗を押し立てることに成功し、幕府側は錦の御旗の前に総崩れとなった。輪王寺宮が慶応4年(1868)に彰義隊に擁立された頃、輪王寺宮が天皇として擁立されるという噂は流れていたが、榎本武揚は、「南北朝の昔の如き事を御勤め申す者が有之候とも御同意遊ばすな」と忠告していたという。

しかし、奥羽越列藩同盟が成立し蝦夷地をも含む北部政権構想が持ち上がってくると、輪王寺宮を北部政権の「天皇」として推戴することが議論され始めたようだ。当時の日本をアメリカ公使は本国に対し、「今、日本には二人の帝がいる。現在は、北部政権のほうが優勢である。」と伝えている。

奥羽越列藩同盟が締結された時期には、北部政権が議論され、輪王寺宮を東武皇帝として擁立し、元号を「大政」と改めようとしたことは「旧仙台藩士資料」などから間違いないだろう。奥羽列藩同盟が、その後の白河口の戦いなどの初戦を乗り切り、長期的に抵抗する体制が整えることができたなら、この構想が現実化したかもしれない。

しかし列藩同盟側の装備は古く、初戦を乗り切ることはできず、その後の各地の戦闘でも連敗が続いた。初戦の白河口の戦いを乗り切り、装備が新しくなるまでの間、奥羽の防御線を守りきることができたなら「東武皇帝」が誕生した可能性は大きい。

列藩同盟側が各地の戦いで善戦しながらも押し込まれたのは、装備が旧式であったこともあるが、西軍の錦の御旗に対して、求心力が決定的に不足していた。だからこそ、白石での列藩同盟の発足にあたって、軍事的要素も含む同盟の総裁への就任が要請されたが、「君側の奸」を除くことには同意しながらも、軍事的な立場には立てないとし、結局、政治的な意味の「盟主」のみを受諾した。

列藩同盟としては西軍の錦の御旗に対するの求心点が必要ではあったろうが、東武皇帝構想が実現し、北部朝廷が生まれれば、南北朝時代の混乱が生じたかもしれない。それは榎本武揚のみならず、輪王寺宮を担ぎ出した仙台藩の大槻盤渓や只木土佐、玉虫左太夫らの思いは同じだったろう。仙台藩はこの構想を一旦封印したようだ。

それでも、この構想は深く密かに進んでいたようで、「旧仙台藩士資料」などには、「東武皇帝」を擁立し、元号を「大政」と改め、政府の布陣を定めた名簿が史料として残っており、「北部朝廷」はほぼ確定的になっていたようだ。

しかし、7月には、初戦の白河口の戦いに敗れ、その後の戦いは、それぞれの藩に戻り戦うことになり、それぞれの藩が連携し戦うことがあっても、列藩同盟軍として戦うことはなく、「東武皇帝」構想は自然消滅したようだ。

9月15日、仙台藩は西軍に降伏し、輪王寺宮は降伏文を奥羽追討平潟口総督へ提出、11月19日に京都に到着、蟄居を申し付けられ、親王の身分を解かれた。明治2年(1869)9月に処分を解かれ、伏見宮に復帰し終身禄三百石を賜った。

12月にプロイセン(後のドイツ帝国)留学に出発した。ドイツではドイツ語を習得、ドイツ軍で訓練を受けた後に陸軍大学校で軍事を学習した。明治17年(1884)に陸軍少将、さらに明治25年(1892)に中将に昇進している。明治26年(1893)11月に第4師団長となり、明治28年(1895)には、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征。ところが現地でマラリアに罹り、同年10月、台南にて薨去した。